海援隊と坂本龍馬

新政府綱領八策の中に西郷隆盛の名前はありましたが、そこに坂本龍馬の名前はなく、不思議に思った西郷の問いに対して龍馬は「わしは世界の海援隊でもやりますか」と言って笑っていたといいます。

海援隊というのは、坂本龍馬が中心になって結成した組織で私設海軍であり、貿易などを行っていました。

薩摩藩からの援助を受けて運輸・開拓・教育など幅広く活動。さらには政治や商いを行い、元々海援隊のメンバーは海軍塾の塾生たちでした。

塾生たちは航海術など専門的な知識を学んでいたため、船を扱うことに長け重宝されたといいます。

海軍操練所

1864年5月に江戸幕府軍艦奉行の勝海舟が中心となり、神戸に創設されたのが神戸海軍操練所です。

龍馬は勝海舟の手足となり、操練所設立に向けて東奔西走します。

勝海舟像

道連所より早く開設された海舟の私塾もあり、身分が低いものや脱藩者などは私塾である海軍塾、藩士などは海軍操練所と一応分かれていたそうですが、共に勝海舟の下で学びました。坂本龍馬は海軍塾の塾頭を務めていました。

1864年7月、長州藩が幕府側と市中戦となった禁門の変(蛤御門の変)において、長州側が御所に向けて発砲したことで長州藩は朝敵として定められ、幕府は長州征伐を発令します。

また、禁門の変に海軍塾塾生の安岡金馬が長州軍として参戦しており、これが幕府で問題視されてしまいます。

海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、海舟は江戸へ召喚され、軍艦奉行を罷免されました。

それにより、神戸海軍操練所は廃止。龍馬をはじめとした塾生たちは薩摩藩に庇護され、1865年に海軍操練所は正式に廃止となりました。

亀山社中の始動

薩摩藩に預けられた塾生たちは、薩摩藩と長崎の小曾根家から援助を受けて航海術などを生かし商業活動を行いました。

これが日本初の商社と言われている「亀山社中」です。

亀山社中は犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を結び付けることに貢献し、後に薩長同盟締結に至っています。

しかし、長州藩から薩摩藩に米を運ぶ途中、ワイルウェフ号(薩摩藩が供与)が遭難して沈没。

ユニオン号を長州藩へと引き渡すことになった亀山社中は、船を失ってしまいます。

そのため、亀山社中の水夫たちに龍馬は暇を出しましたが、離れたがるものは少なく、困り果てた龍馬は三吉慎蔵宛の手紙に記しました。

これによりワイルウェフ号の代わりにと薩摩藩は、代わりとして帆船「大極丸」を亀山社中に供与しています。

海援隊に改称

土佐勤王党の尊攘派志士たちを強く弾圧していた土佐藩も意見を替え、軍備強化を急いでいました。

当時、土佐藩の参政だった後藤象二郎を中心に長崎から武器や弾薬の購入をしていました。

そんな中、航海術があり、商業の専門技術もある、さらに薩摩や長州との繋がりもある坂本龍馬に注目した土佐藩は、龍馬たち土佐藩脱藩者の罪を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体とすることを決めます。

1867年4月には亀山社中は「海援隊」に改称し、土佐藩からの援助を受けて土佐藩士などを受け入れや運輸や交易、開拓などで土佐藩を助けながら、海軍と交易会社の二つの面を兼ね備えた組織として活動しています。

海援隊の苦難

海援隊を結成してから時を置かず、大洲藩に籍を置き海援隊が運用していた(レンタル)蒸気船の「いろは丸」が紀州藩船の明光丸と衝突してしまいます。

海援隊の集合写真※龍馬は左から3番目

いろは丸は沈没し、紀州藩から賠償金の支払いを受けたものの海援隊の経済状況は悪く、決死の交渉によって紀州藩が賠償の支払いに応じることに同意。

その後、龍馬が薩土同盟成立のために留守にしている間、長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され海援隊士が犯人として疑われます。

龍馬は象二郎と共に長崎へと戻り、英国公使のパークスと話し合った結果、証拠不十分で海援隊士の嫌疑は晴れることになりました。

龍馬にとって海援隊は同じ海軍塾で寝食を共にし、学んだ仲間がいる場所であり、結成当時脱藩者であった龍馬にとって自分の居場所でもあり、国のために動く基盤となっていたのではないでしょうか。


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