中岡慎太郎と坂本龍馬

坂本龍馬の盟友であり、共に近江屋で遭難し命を落とした中岡慎太郎。

坂本龍馬が有名過ぎるためか、あまり大々的に取り上げられることはありませんが、龍馬の功績と捉えられることが多い薩長同盟も中岡慎太郎がいたからこそ成ったと言っても過言ではありません。

中岡慎太郎は、1838年に土佐藩内の北川郷の大庄屋の家に長男として誕生しました。

1854年、江戸の安積艮斎の私塾で学び、帰郷後土佐藩が設営した田野学館などで教鞭をとっていた間崎哲馬の私塾で経史を学び、翌年の1855年には武市半平太(武市瑞山)の道場へと入門し、剣術を学んでいます。

1861年、剣術の師武市半平太が藩内勢力を作り、山内容堂の意向に影響を与え、土佐藩を尊王攘夷の方向へ転換させるために土佐勤王党を結成します。

それに加盟し、本格的に尊王攘夷の志士としての活動を開始。この土佐勤王党には、坂本龍馬も参加し国元では筆頭となっていました。

違う道を歩む二人

中岡は1862年に長州藩の久坂玄瑞(長州藩士。長州藩の尊攘運動の中心的人物)・山県半蔵(長州藩士)と共に信濃の松代へ佐久間象山を訪ね政治改革や国防について議論を交わしました。

ここで中岡はより一層意識を高めたと言われており、この年に土佐藩の参政・吉田東洋が土佐勤王党によって暗殺されます。

長州藩尊攘派と並ぶ、この過激さに坂本龍馬は嫌気がさしたようですが、中岡慎太郎は土佐勤王党での活動を熱心に続けました。

同じ土佐勤王党に所属していましたが、思想の相違から二人は違う道を歩み始めます。

1863年、坂本龍馬は勝海舟の下にいました。海舟の取りなしにより、山内容堂から脱藩の罪を許された龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走します。

同年の4月には海軍操練所の設立許可がおり、海舟の私塾の開設も認められました。

しかし、八月十八日の政変により朝廷内から尊攘派の公家や長州藩が追放されると土佐藩内でも尊攘派に対する弾圧があり、尊攘派の志士であった中岡は土佐藩を脱藩し、長州へと身を寄せることになります。

攘夷志士のまとめ役

長州藩内で中岡と同様に脱藩してきた志士達のまとめ役となり、さらには八月十八日の政変により、京を追われていた三条実美の警護をしながら、各地の攘夷志士の連絡役となっていました。

1864年には薩摩藩の島津久光を暗殺しようと画策しましたが成功せず、続いて脱藩志士を率いて金門の変(長州と幕府の武力衝突)や下関戦争(長州と米・英・仏・蘭との間に起きた攘夷思想に基づく武力衝突)に長州側で参戦します。

その中で長州への冤罪や無益な対立、攘夷志士に対する弾圧を目にした中岡は、単なる尊王攘夷思想から力のある藩の協力体制による武力倒幕を目指すようになります。

そこで白羽の矢が立ったのは、中岡自身が身を寄せている長州藩と一会桑政権から外されていた薩摩藩でした。

中岡は薩長同盟締結を目指し、坂本龍馬や土方久元を説き伏せて協力させたことで、薩摩と長州の間を取り持つことに成功しました。

再開した二人

長州藩側の中岡慎太郎が発案者となり、薩摩藩側の坂本龍馬が薩長の間の相互支援を取り持つという関係が構築できたからこそ、薩長同盟は締結することができたのです。

土佐勤王党の過激さから一度道を別ち、再び道を同じくしましたが目的を果たした後、同じ土佐出身の二人はまた別々の道を歩み始めます。

薩長同盟締結後、大政奉還による江戸城の無血開城を計画した坂本龍馬に対して中岡慎太郎は、武力倒幕を目指し陸援隊を編成し、自らが隊長となりました。

また、薩摩藩と土佐藩の間に武力討伐のための盟約を結ばせ、この盟約によって勃発した戊辰戦争では、旧幕府軍を追い詰める政府軍の先鋒になっています。

最期は京都四条の近江屋で共に暗殺された二人、結果としては思想の違いが行動の違いを生み、後に語られる功績の違いになって現れているのかもしれませんが、より良い国を目指していたという点においては違いはありません。


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