龍馬と関わった人物①

ジョン万次郎

ジョン万次郎(1827年~1898年)は、1827年に現在の高知県土佐清水市中浜で半農半漁を生業とする貧しい漁師の家に次男として生まれました。

万次郎が9歳の時には父が亡くなり、母と兄は病弱であったことから幼い万次郎が家族を支えてきました。

1841年、万次郎が14歳の時に乗り込んでいた漁船が遭難、漂流後に伊豆諸島にある無人島に漂着。

およそ143日間という長い時間を僅かな水と海藻を食べて生きのび、アメリカの捕鯨船の乗組員に保護されました。

しかし、当時の日本は鎖国体制をとっていたため、アメリカ船が日本に寄港することができず、保護された万次郎を含む4人はアメリカ本土のハワイへと渡りました。

万次郎は捕鯨船の船長・ホイットフィールドの養子になり、オックスフォード学校やバートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを熱心に学びます。

卒業後、捕鯨船の副船長となった万次郎は、1850年に日本へ帰国することを決意。ハワイの漁師仲間と合流し、1851年に購入した小舟で琉球へと上陸、薩摩本土へ送られました。

万次郎は薩摩藩主の島津斉彬の命で藩士らに西洋式の造船術や航海術を教え、後に開成所で英語を教えました。

故郷土佐では吉田東洋らの取り調べを受けた後、河田小龍の家に同居、土佐藩の士分に取り立てられ藩校の教授となり、後藤象二郎や岩崎弥太郎に教えています。

その後も通訳や教師として活躍し、1898年に脳溢血で死去。

坂本龍馬とジョン万次郎が直接会ったという記述はありませんが、土佐に帰国後、万次郎が起居していた河田小龍と龍馬の姉・乙女の夫で藩御用格医師であった岡上樹庵はかねてから親交がありました。

龍馬が小龍宅を訪れ、国際情勢や海運の重要性を説かれいるため、もしかすると顔を合わせていたかもしれませんね。

平井収二郎

平井収二郎(ひらい しゅうじろう:1835年~1863年)は、1835年に土佐藩上士・平井伝八の嫡子として生まれました。

1861年に武市半平太が中心となって結成した「土佐勤王党」に参加、尊攘派の志士として活動します。

土佐藩主・山内容堂が上洛する際、他藩に対する応接役として上洛、公卿や薩摩藩、長州藩などの尊攘派と交流します。

収二郎は幼少の頃から文武を学び、伊勢の朱子学者・斎藤拙堂の下でも学び、頭脳明晰、思慮深く、闊達な人物であったと言われています。

同年だった龍馬とは仲が良く、龍馬の初恋の相手は収二郎の妹・加尾であったと言われています。

龍馬と共に参加していた土佐勤王党では、幹部を務めていたことから尊攘派であり、安政の大獄によって処罰された水戸藩士・鵜飼吉右衛門の息子二人の罪を軽くするよう図ったことで名を上げました。

また、八月十八日の政変では朝廷に追われ、徳川家茂に攘夷の催促に向かった際、武市半平太と京都で国事周旋を行い、薩摩と長州の仲を改善するための尊攘活動に専念しました。

その後、土佐藩の藩政が勤王党の考えている藩政と違うことに対して藩政改革を迫り、山内容堂の怒りに触れ、間崎哲馬らと共に切腹します。

先にも書いたように坂本龍馬とは仲が良かったと言われており、お互いの家が近かったため、幼馴染なんですね。

龍馬が数多く残した手紙の中に収二郎宛のものはないのですが、収二郎の妹・加尾宛に男装して一緒に活動しましょうと誘う手紙を出しています。

危険な活動に妹を誘うなんて……収二郎にバレていたら大変ですね。

平井加尾

平井加尾(ひらいかお:1838年~1909年)は、坂本龍馬の初恋の相手だと言われている人物で広末涼子さんが演じたことで話題になりました。

龍馬と共に土佐勤王党に参加していた平井収二郎の妹でもあり、龍馬が男装して「一緒に勤王活動しようよ」という内容の手紙を送った相手でもあります。

加尾は土佐藩上士の平井伝八の家に生まれ、龍馬より4歳年下で和歌を嗜み、才色兼備なお嬢さんだったようです。

一絃琴を習っていた龍馬のスーパー姉さんこと坂本乙女と加尾は、稽古仲間で龍馬とは幼馴染になります。

土佐藩藩主・山内容堂の妹・友姫が京都の三条家に嫁ぐ際、上士の娘であったことから奥女中として友姫と一緒に上洛し、三条家に仕えました。

京都では兄・収二郎が幹部を務める土佐勤王党の関係者の世話をしたり、京都の様子を収二郎に連絡していました。

この行動力と度胸が、龍馬に男装して一緒に活動しようという手紙を書かせたのですね。

実際に加尾は袴と羽織を仕立て、大刀は理由を言わずに兄・収二郎に送ってもらい、小刀は懐剣で間に合わせるなど準備をしていたそうです。

兄にばれていたら龍馬は無事ではなかった気がします。

ちなみに八月十八日の政変で追われるまでは、朝廷に顔が効いた三条家にいる加尾をスパイとして御所に入れ、関東の情報を探らせるという龍馬の計画は平収二郎によって拒否されたとか…..それは断るよね、収二郎。

龍馬が土佐勤王党を脱退してからは、龍馬の誘いを全て断るようにという内容の手紙を収二郎が加尾に送っており、その後龍馬と加尾の接点はなくなりました。

武市半平太

武市半平太(たけいちはんぺいた※武市瑞山たけちずいざん:1829年~1865年)は、土佐藩郷士で上士の家に生まれました。

一刀流の千頭伝四郎に入門して剣術を学び、1850年には高知城下に転居、小野派一刀流でさらに剣術を学びました。

新町に道場を開き、小野派一刀流の皆伝を受けた1854年には地震で家屋を失いましたが、翌年には自宅にて妻・富子の叔父で槍術家の島村寿之助と道場を開設します。

この道場は後の「土佐勤王党」の元になり、門下生には中岡慎太郎や岡田以蔵が在籍していました。

岡田以蔵らを伴って剣術修行に行った江戸では、鏡心明智流士学館に入門、皆伝を受け塾頭となるなど剣の腕が凄かったことがわかります。

徳川家茂が次期将軍に決まると一橋慶喜を推していた土佐藩主・山内豊信は大老・井伊直弼によって隠居させられます。

しかし、1860年に井伊直弼が暗殺されたことにより、攘夷運動は盛り上がりを見せました。

1861年、半平太は剣術修行の名目で江戸へ行き、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、薩摩藩の樺山三円、水戸藩の岩間金平ら尊攘派と交流。

久坂に心服した半平太は、久坂の師である吉田松陰の思想に共鳴します。

武市半平太は土佐へと戻り、尊攘の同志を募って土佐勤王党を結成、坂本龍馬は筆頭加盟者になっています。

この時期、藩政を握っていた吉田東洋が開国・公武合体を唱えていたことから、半平太はこの藩論を覆すべく吉田東洋を暗殺、実質的な藩政の主導権を握ります。

当時の土佐藩主・山内容堂は勤王党の台頭に不快感を抱くようになり、吉田東洋暗殺の犯人として勤王党の平井・間崎・弘瀬を切腹させています。

京都では八月十八日の政変により長州藩が失脚、公武合体派が主導権を握るようになると勤王派は衰退していき、尊攘派を取り巻く情勢も悪化の一途を辿りました。

土佐勤王党幹部に逮捕命令が出され、投獄されましたが、吉田東洋暗殺など被疑を否定し続けました。

しかし、京都に残っていた岡田以蔵が捕縛され、土佐へ送還されると京都や大坂で起きた事件について実行者名などを次々と自白、逮捕者が続出します。

それでも半平太たちは黙秘を続け、郷を煮やした山内容堂によって「主君に対する不敬行為」として武市半平太は切腹、岡田以蔵含め自白したものは斬首になりました。

武市半平太と坂本龍馬は遠縁にあたり、半平太が土佐勤王党を結成した際、龍馬が筆頭加盟者となっていましたが、勤王党の過激なやり方を嫌った龍馬は早々に土佐勤王党から離れています。

溝渕広之丞

溝渕広之丞(みぞぶちひろのじょう:1828年~1909年)は、1828年に土佐国土佐郡江ノ口村に生まれました。

1853年には江戸に出て北辰一刀流の千葉周作の弟・千葉定吉の小千葉道場で剣術を学び、さらには佐久間象山の下で砲術を学んでいます。

この時に坂本龍馬も一緒に江戸自費遊学に出かけており、同じ小千葉道場で剣術修行をしています。

一説には佐久間象山を坂本龍馬に紹介したのは、この溝渕広之丞だと言われています。

その後、溝渕は長崎へ行き、西洋の学問や砲術を学びました。長崎で学んでいる間に薩摩藩や小曾根家からの援助を受けて亀山社中を結成した坂本龍馬と再会します。

溝渕は龍馬と違って脱藩者というわけではなく、土佐藩士という立場で長州の桂小五郎などとも交流していたようです。

何はともあれ、長崎で坂本龍馬と溝渕広之丞が再開したことは龍馬にとっても大きなことでした。

この頃の土佐藩は軍備強化を急いでおり、参政の後藤象二郎を責任者に据え、長崎で武器屋弾薬の買い付けを積極的に行っていました。

そこで航海術を持ち、亀山社中での通商の技術も持つ坂本龍馬に目をつけたのです。

溝渕は坂本龍馬と接触し、1867年には坂本龍馬と後藤象二郎が長崎の清風亭で会談し、龍馬たちは脱藩の罪を赦免され土佐藩の外郭団体として「海援隊」を結成。

その後、溝渕は土佐藩で砲術を指導し、明治政府が確立した後は政府で働くことはせず、隠居生活を送り明治40年に81歳で亡くなりました。

坂本龍馬と溝渕広之丞は、同じ道場で剣の腕を磨いた仲であり、龍馬にとって溝渕は海援隊結成のきっかけを作ってくれた人物でもあります。

桂小五郎

桂小五郎(かつらこごろう:1833年~1877年)は、大久保利通・西郷隆盛と並んで維新三傑の一人に数えられています。維新三傑では「木戸孝允」の名前ですが、幕末の頃には「桂小五郎」と名乗っていました。

1833年に医者の家に生まれて武士の家で育ち、病弱だった桂ですが吉田松陰の教えを受け、剣術の他に砲台築造や英語、西洋兵学、小銃術など幅広く生日、長州藩内では尊王攘夷派の中心人物でした。

破約攘夷や開国を謳う勤王派の志士であり、長州藩では外交を担当するなど藩の政務では最高責任者のような役割です。

藩政の中心にいた桂は、師である吉田松陰の航海雄略論を藩論として採用し、長州藩は開国攘夷の雄藩となりました。

長州藩といえば尊攘過激派の温床のイメージがありますが、桂は今のままでは海外に太刀打ちできないと考え、朝敵と見なされた長州は第一次長州征伐を受けます。

ひっそりとなりを潜めていた桂でしたが、高杉晋作が俗論派(長州藩保守派)を排斥して藩の実権を握ると復帰。

犬猿であった薩摩藩と薩長同盟を締結し、第二次長州征伐の際には薩摩藩から得た武器などで迎え撃ちました。

明治新政府では木戸孝允と名乗り、版籍奉還や廃藩置県、四民平等など行います。

坂本龍馬は、薩摩藩との関わりが強かったことから桂小五郎との関係はあまり出てきませんが、大政奉還を前に桂が龍馬に宛てた手紙の原本が数年前に発見されています。

手紙の内容は、「大政奉還を着実に進めることや幕府との武力衝突に向けて薩摩の西郷と土佐の板垣の協力が急務である」と書かれていました。

近藤長次郎

近藤長次郎(こんどうちょうじろう:1838年~1866年)は、1838年に高知城下で饅頭(まんじゅ)商人を営む「大里屋」に生まれ、長次郎自身も饅頭を売り歩いていました。

そのため、当初は名字がなく「饅頭屋長次郎」と呼ばれていましたが、長次郎は幼少の頃より頭が賢く、土佐では日本画家で思想家の河田小龍に学び、江戸では安積艮斎の下で儒学や砲術を学びました。

その才能を山内容堂に見いだされた長次郎は苗字帯刀を許され、幕府の政治総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁し、春嶽から勝海舟への紹介状を受け取り、龍馬・門田為之助と共に海舟の屋敷を訪れて門人になりました。

その後、長次郎は龍馬と共に海舟が提唱していた「神戸海軍操練所」に入門。

禁門の変に海軍操練所の塾生が関与していたことから、操練所が廃止になると薩摩藩の庇護を受け、航海術などの専門的な知識を生かして龍馬ら塾生仲間と共に「亀山社中」を設立。

長州藩へ小銃の売り渡しやユニオン号を購入するなどの活動を行いました。

その後、亀山社中が世話になっていた薩摩藩の家老・小松清廉が費用を負担し、長崎のイギリス商人グラバーの手配でイギリスへ留学する予定でした。

しかし、亀山社中の規約に違反したとして仲間から追及を受け、亀山社中が援助を受けていた長崎の小曾根乾堂邸で切腹します。

坂本龍馬と近藤長次郎は仲が良く、長次郎が自ら命を絶った時に龍馬は薩長同盟締結のために京都へ出向いており、その知らせを受けた龍馬は「自分がいたら長次郎を死なせはしなかった」と悲しみに暮れたそうです。

岡田以蔵

岡田以蔵(おかだいぞう:1838年~1865年)は、土佐国の郷士・岡田義平の長男として生まれました。

武市半平太が島村寿之助と共に開いた道場に入門し、江戸や中国、九州でも剣術を学びます。

1861年に武市半平太が土佐で土佐勤王党を結成を受けて加盟、1862年6月参勤交代の衛士に抜擢され半平太と共に京へと向かいました。

岡田以蔵は半平太らと共に王政復古のために尽力する傍ら、土佐藩下目付・井上佐市郎や安政の大獄で尊攘派の弾圧を行ったものなどに「天誅」と称して集団制裁を加え、京都町奉行の役人や安政の大獄を指揮した長野主膳の愛人の息子・多田帯刀などが標的とされました。

その後、以蔵は高杉晋作の元に身を寄せていましたが、酒におぼれ、借金を繰り返し、龍馬の紹介で勝海舟の元に行きましたが、龍馬たちにも見放されてしまいます。

犯罪者となった以蔵は京都で捕縛され、土佐へ搬送されましたが、ちょうど土佐藩では吉田東洋暗殺の犯人探しが行われており、半平太をはじめとした土佐勤王党の同志が捕えられていました。

以蔵も例外ではなく、拷問を受けてあっさりと自白。それによりさらに多くの同志が捕縛されました。

以蔵がさらなる自白をする前に毒殺する案がありましたが、以蔵の実家に確認している間に刑が決まり、武市半平太は切腹、以蔵ら自白した4人は斬首となりました。

岡田以蔵は土佐勤王党の一員であり、坂本龍馬が勝海舟の護衛として付けたほど剣の腕が立ち、龍馬が信頼していた人物でした。


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