龍馬と関わった人物②

後藤象二郎

後藤象二郎(ごとうしょうじろう:1838年~1897年)は、馬廻格の土佐藩士・後藤正晴の長男として生まれ、幼くして父を亡くしてからは義理の叔父にあたる吉田東洋に養育されました。

東洋が参勤交代の際、酒宴の席で旗本を殴る事件を起こし、土佐で謹慎処分を受けている間に開設した私塾の少林塾(鶴田塾)で板垣退助や岩崎弥太郎らと共に学びました。

さらに柳河藩の藩士・大石種昌に大石神影流剣術を学びます。

1858年、参政として藩政に参加していた養父で師でもある吉田東洋の推薦で藩政に参加。幡多郡奉行となり、1860年には土佐藩大阪藩邸店築のための普請奉行に抜擢されました。

しかし、土佐勤王党により吉田東洋が暗殺されると役を解かれ、1863年に江戸へ行き開成所で英語を会津藩士・高橋金兵衛から航海術を学びます。

およそ一年間の江戸遊学を終えて1864年には藩政に復帰し、前土佐藩主・山内容堂に信頼され大監察につき、さらには参政として公武合体派の中心的人物として活躍しました。

象二郎は東洋を暗殺した土佐勤王党を山内容堂の命によぅて壊滅させ弾圧、参政になってからは産業・貿易などを中心とした経済政策を行いました。

また、時勢の流れを読み、軍備強化を行う際には亀山社中を設立し、輸送や武器の取引に長けていた坂本龍馬に注目。

溝渕広之丞の仲介により龍馬と会見し意気投合、龍馬ら脱藩者の罪を許し、海援隊として土佐藩の外郭組織としました。

京都に呼ばれていた後藤象二郎は坂本龍馬と藩船で移動している時に龍馬から「船中八策」を提言され、山内容堂へと進言し後に徳川慶喜による大政奉還へと繋がっていきます。

新政府成立以降は王政復古の大号令によって主導権を薩長に握られてしまいますが、戊辰戦争が終わった後も象二郎は政治家として活躍しました。

土佐勤王党にいたこともある坂本龍馬にとって後藤象二郎は、武市半平太らを死へ追いやった人物でもありましたが、長崎での会見以降はお互いに頼るところがある盟友となっていきます。

この二人の出会いがなければ大政奉還は成し得なかったかもしれません。

坂崎紫瀾

坂崎紫瀾(さかざきしらん:1853年~1913年)は、1853年生まれのジャーナリスト。小説家・歴史研究者でもあり、自由民権運動家でもあった人物です。

紫瀾の父親は土佐藩の藩医で江戸の鍛治屋橋にあった土佐藩邸で誕生。

1850年代に日本全国で連発した安静の大地震をきっかけに家族で土佐へと帰国し、父親は開業医となりました。

坂崎紫瀾は土佐藩の藩校「致道館」で学び、すぐに頭角を現した紫瀾は句読師(学校の教員の担当のひとつ)に抜擢されました。

紫瀾は幕末の動乱の中で何かを成したという人物ではないため、明治になるまでの経歴等は不明です。

長く続いた幕府中心の政治が終わりを迎え新しい時代となり、旧幕府軍と新政府軍との戦いである戊辰戦争が終結した1872年(明治5年)、紫瀾は彦根藩の藩校で教鞭をとりましたが短期間で職を辞します。

その後、ギリシア正教の修道士であったニコライの塾や大教院などで学び、1874年には土佐出身の板垣退助とともに「愛国公党」の創立に参加し、同年に大教院の記者となって「教会新聞」に携わりました。

翌年の1875年には司法十五等出仕に任命され、1876年には長野県の松本裁判所に判事として赴任。しかし、判事の職も一年で辞し「松本新聞」の編集長となり国会開設や男女同権論、普通選挙実施など自由民権運動を主張する社説を掲載します。

1878年に高知へ戻ると1880年には立志社の編集長となり、同年9月からは平井収二郎や坂本龍馬が登場する歴史小説「南の海血汐の曙」を連載。

1883年には坂本龍馬を主人公にした「汗血千里駒」を連載し、1912年(大正12年)には「維新土佐勤王史」を出版しました。

今でも坂本龍馬が広く知られているのは、坂崎紫瀾がモチーフとして小説を書き残してくれたおかげかもしれません。

山内容堂(豊信)

山内容堂(やまうちようどう:(1848年~1872年)は、第15代土佐藩主。後に福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬と並び幕末四賢候と呼ばれました。

容堂は古くからの家臣たちによる藩政を嫌がり、革新派の「新おこぜ組(吉田東洋の私塾・少林塾の塾生たちが中心となり生まれた派閥の蔑称)」から藩政に吉田東洋を起用し、参政職の仕置役に任命すると海防の強化や軍備の西洋化、財政改革、身分制度改革など土佐藩政改革を断行し、藩士の長崎遊学を奨励しました。

その他、後に藩の参政となる後藤象二郎や福岡孝弟を起用しています。

幕府の後継者問題では一橋慶喜を推し、家茂が次期将軍に決まった後は土佐藩主の座を前藩主の弟・豊範に譲ると自身は隠居します。

公武合体思想に基づいて土佐藩内の勤王志士を弾圧し、朝廷に奉仕しながらも幕府にとって良かれという行いをとっていましたが、容堂が謹慎中に土佐藩内ではクーデターが起こり、武市半平太を筆頭とする土佐勤王党が台頭し、吉田東洋が暗殺される事件が起こります。

京都では八月十八日の政変により、攘夷派が朝廷内から追い出されると代わって佐幕派が主導権を握り、容堂の謹慎も解かれたため、土佐へ帰国し藩政を掌握しました。

容堂は吉田東洋暗殺の犯人を捜し、土佐勤王党を弾圧、武市半平太ら幹部を切腹させるなどして壊滅状態へと追い詰めます。

東洋の後を継ぐ参政として後藤象二郎を起用し、大政奉還に向けての動き始めることになるのです。

日根野弁治

日根野弁治(ひねのべんじ:1815年~1867年)は、1815年土佐藩郷士・市川勇次郎のもとに生を受けました。弁治は次男とも4男とも言われていますが、定かではありません。

弁治は日根野恵吉の下で小栗流を学びました。

日根野道場小栗流は、和術(徒手や短い武器を使用して攻防する技法を中心とした日本の武術で相手を殺傷せずに捕えたり、また、護身術としての役割も果たしています)を主とし、剣術・薙刀術・抜刀術・槍術などを組み合わせた流派ですが、江戸時代には主に和術と剣術を教えていました。

小栗流を学んでいた弁治は、その腕を見込まれ、子供がいなかった日根野恵吉の養子になりました。

弁治は剣術指導役や屋敷弘敷役を歴任、その他にも高知城下の築屋敷で道場を開いており、弁治が郷士の出身だったためか下士の身分の門弟が多く学んでいました。

この弁治が開いた日根野道場には、裕福な家庭ではあったものの商家の分家という立場から土佐藩の下士の家に生まれた坂本龍馬も門下として通っており、14歳~19歳までの5年間剣術などの修行をしています。

ここで龍馬は「小栗流和兵法事目録」を伝授され、同年1853年には剣術修行のために江戸遊学に行くことが土佐藩から許されました。

江戸での遊学では北辰一刀流の小千葉道場で剣術を学び、浦賀にペリーがやってきた時には品川の土佐藩下屋敷の守備にあたっていました。

幼い頃の龍馬は気弱な少年で漢学の楠山塾でもいじめに遭い、抜刀騒ぎを起こして退塾になっていましたが、日根野道場で熱心に剣術に励んでいたことはその後の龍馬に影響を与えたのではないでしょうか。

澤村惣之丞

澤村惣之丞(さわむらそうのじょう:1843年~1868年)は、1843年に土佐の浪人の子として生まれ、中岡慎太郎や吉村虎太郎と共に間崎哲馬の下で学びました。

1861年に武市半平太らが中心となって結成した「土佐勤王党」に参加。

土佐勤王党には武市半平太の遠縁にあたる坂本龍馬も筆頭加盟者として参加しています。

挙藩勤王を目指した土佐勤王党は、四国や九州へと動静調査のために勤王党の隊士を派遣しており、澤村惣之丞もその一人でした。

薩摩藩の島津久光が上洛するという知らせが土佐に伝わると、この上洛を倒幕のための上洛と勘違いした尊王攘夷派の志士達は、それに参加するべく上洛するものが相次ぎました。

武市の考えはあくまでも挙藩勤王であり、伏見義挙を行うために1862年、吉村虎太郎、澤村惣之丞が脱藩し、次いで坂本龍馬も脱藩しました。

しかし、この上洛は幕政改革の為であったことから島津久光は鎮撫を命じました。これにより攘夷派の計画は消えます。

その後、勝海舟の取りなしによって龍馬の脱藩の罪が許されると土佐藩士が海舟の私塾に入門することを許され、惣之丞も海舟の門人となりました。

惣之丞は龍馬と共に亀山社中及び海援隊の中核として活躍。惣之丞は英語も堪能で海外との交渉役なども務めていました。

1867年に坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺された後、容疑者の暗殺計画に参加しましたが失敗に終わり、鳥羽伏見の戦いの際には佐佐木高行に率いられ長崎奉行所を占拠。

その際に惣之丞は酒気を帯びた暴漢を射殺しており、相手が薩摩藩士・川端平助であったことが判明し、1868年に責任をとって切腹。

龍馬にとって惣之丞は同郷の仲間であり、亀山社中や海援隊では頼りになる人物であったことでしょう。

岡本寧浦

岡本寧浦(おかもとねいほ:1789年~1848年)は、1789年に土佐藩内の土佐国安芸郡安田浦にある浄土真宗の寺院・乗光寺第5世弁翁の子と言われています。

幼いころから勉学に励み、京都の本願寺で仏教について学んでいましたが、儒学を志して寺を甥に譲ると自身は還俗し、篠崎小竹や大塩平八郎、安積艮斎と交流し、大坂で儒学を教えました。

寧浦は備後福山藩に招かれましたが、1838年に当時の土佐藩主・山内豊資から用人格上下3人扶持を賜り、教授館の下役となり、高知城下では私塾を開設し、土佐藩内に陽明学を広めました。

1846年には教授館下役を辞し、私塾の経営に専念。門下生には岩崎弥太郎や河田小龍、奥宮慥斎の他、土佐勤王党の中心人物となった武市半平太や吉田東洋などにも影響を与えたとされています。

岡本寧浦と坂本龍馬に直接関わりがあったかどうかはわかりませんが、岡本寧浦と交流があり門弟でもあった河田小龍が龍馬の姉・乙女の夫である岡上樹庵と親交があったことから河田小龍を通じて寧浦の考え方などは龍馬に伝わっていたかもしれません。

岡本寧浦は1853年に坂本龍馬が江戸に剣術修行で遊学に出た頃に亡くなっています。

河田小龍

河田小龍(かわだ しょうりょう「しょうりゅう」:1824年~1898年)は、1824年に土佐藩の御船方軽格の藩士の家に生まれました。

幼いころから画家の島本蘭渓のもとで学び、16歳ころには土佐藩の儒学者であった岡本寧浦に入門。

1844年には吉田東洋に従って京都へと遊学し、桃山風の画風を基礎として低迷していた京狩野家を再興した日本画家の狩野永岳を師に画を学びました。

このような経歴を持つ河田小龍ですが、一番大きく知られているのは遭難・漂流しアメリカ本土に渡ったジョン万次郎の取り調べにあたったということでしょう。

1852年にアメリカ本国から帰国した土佐の漁師・ジョン万次郎を土佐藩の許可を得て自宅に住まわせ、毎日役所に行って取り調べをする中で万次郎から英語を学びました。

万次郎には自身が読み書きを教え、二人の間には友情が芽生えたといいます。

当時、鎖国状態にあった日本では異国の生活事情などを知るすべは非常に限られており、万次郎が話す異国の話に小龍は大変驚き、挿絵を添えて書き上げた「漂巽紀畧」を藩主に献上しました。

河田小龍は、坂本龍馬の姉・乙女の夫である土佐藩御用医師の岡本樹庵とかねてから親交があり、龍馬に海運による貿易の必要性を説いたと言われており、さらに後に海援隊士となる近藤長次郎や長岡謙吉を紹介したそうです。

吉村虎太郎

吉村虎太郎(よしむらとらたろう:1837年~1863年)は、1837年に土佐藩の庄屋の家に長男として生まれる。

12歳の時に父の跡を継ぎ北川村の庄屋になり、後に須崎郷浦庄屋となって同じく庄屋・広田家に生まれた明と結婚。

何事もなくいればそのまま庄屋として生きたのでしょうが、虎太郎は間崎哲馬に学問を学び、さらに剣術を武市半平太に学んだことで尊攘思想に傾倒する様になりました。

事件を起こし転任させられていますが1859年に大庄屋に移り、良く働いたといいます。

しかし、剣術の師である武市半平太が中心となって「土佐勤王党」を結成するとこれに参加し、1862年には半平太からの命を受けて長州に赴き久坂玄瑞に手紙を届けるなどしていました。

薩摩国の島津久光が幕政改革の為に上洛すると倒幕のための上洛と勘違いした各国の攘夷志士達は、参加するために上洛をしようと考えます。

しかし、そんな気は全くない久光は鎮撫を要請し、攘夷志士たちの計画は無くなります。

土佐勤王党の参加を訴えましたが、あくまでも挙藩勤王を目指す武市は譲らず、仕方なく虎太郎は脱藩、同志の澤村惣之丞や坂本龍馬もそれに続きました。

公武合体論者の久光はこれの鎮撫を命じ、寺田屋を襲撃させ過激派志士達を粛正しました。

その際、虎太郎は捕えられ土佐へ送還、世情が尊攘になると赦免され1863年2月には京への自費遊学が許されました。

その後、天誅組を結成して藤本鉄石や松本健三郎らと天誅組の変を起こします。

しかし、八月十八日の政変で尊攘派が中央から撤退させられると後ろ盾をなくし、十津川から高取城を攻めましたが大敗、重傷を負って逃走中に襲撃され27歳で自刃しました。

坂本龍馬と吉村虎太郎は土佐勤王党の仲間であり、倒幕のために脱藩した仲でもあります。龍馬が脱藩をするきっかけにもなった人物です。

吉田松陰

吉田松陰(よしだしょういん:1830年~1859年)は、長州藩士で思想家・教育者でもありました。叔父である玉木文之進の松下村塾で学びます。

松陰は幼少の頃から頭角を現し、長沼流兵学や山鹿流兵学を収めましたが、アヘン戦争で清が西洋の国々に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れであることを痛感します。

その後、西洋兵学を学ぶために1850年九州に遊学へ出かけました。

更に江戸で佐久間象山や安積艮斎に師事し、1851年には肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学びました。

1852年には宮部らと東北旅行を計画しましたが、長州藩からの通行手形を待ち切れず脱藩。

1853年にはペリーが浦賀に来航し佐久間象山と共に黒船を見に行っています。

翌年、ペリーが日米和親条約締結のために再度来航すると渡航を願い出ましたが拒否され、下田奉行所に自首し伝馬町牢屋敷に投獄され、長州へ送り返されると幽囚となりました。

出獄を許可された後、叔父の塾名を継ぎ松下村塾を開塾し、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿などが学びました。

1858年に幕府が天皇の勅許を待たずして日米修好通商条約を締結してしまったことに激怒した松陰。

破約攘夷を迫り、成し得なかった時には武力によって討ち取る計画を立てていました。

松陰は武力行使のための準備を始めましたが思うようにいかず、藩政に対して不満をもつようになりました。

1859年には儒学者の梅田雲浜が幕府に捕縛され、評定所で幕府から問いただされた松陰は老中暗殺計画を告白してしまいます。

その結果、斬首刑が宣告され、同年、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行されました。

坂本龍馬と吉田松陰は、共に佐久間象山に師事しており、松陰は坂本龍馬にとって兄弟子にあたります。

吉田東洋

吉田東洋(よしだとうよう:1816年~1862年)は、1816年に土佐藩上士の家に四男として生まれ、兄が早世してしまったため父亡き後、1841年に吉田家の家督を相続しました。

その後、船奉行として出仕し、わずか2ヶ月で郡奉行となり民政に携わるようになりました。

途中、病で無役となるなどしましたが、1851年には近畿地方を中心に遊学し、漢学者の斎藤拙堂や京都の梁川星巌と交流し見聞を広めました。

1853年に土佐藩主の山内容堂によって大目付として抜擢され、同年の12月には参政として藩政改革を行いました。

しかし、参勤交代で江戸へ赴いた折、酒の席で旗本を殴る事件を起こしたため罷免され、土佐に戻り隠居生活を送りました。

隠居中は少林塾(鶴田塾)という私塾を開設し、後藤象二郎や板垣退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎など若手の藩士が入塾しています。

彼らは「新おこぜ組」と呼ばれ、後に藩政改革の中で大きな役割を果たします。

1857年に罪を許された東洋は、翌年1858年1月に参政として藩政に復帰し、新おこぜ組のメンバーを中心として開国貿易や軍備の西洋化及び軍備強化などの改革を行いました。

しかし、この改革を断行したことにより藩内の保守派層や尊攘を志す土佐勤王党とは対立関係になり、これにより吉田東洋は1862年5月、家に帰る途中で土佐勤王党により暗殺されてしまいます。

吉田東洋と坂本龍馬には直接的な関わりはありませんが、東洋の弟子である後藤象二郎は坂本龍馬と関わりが深く、東洋が暗殺されて後に土佐藩の参政として活躍していた象二郎は龍馬らの脱藩の罪を許し、海援隊として土佐藩の外郭組織にするなどしています。


シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする