1867年に大政奉還によって政権を天皇へと返上し、征夷大将軍職を辞職、王政復古の大号令をもって征夷大将軍職は正式に廃止されました。
この大政奉還当時の将軍は江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜でした。
先代の徳川家茂と先々代の徳川家定の後継を争っていた人です。
13代将軍・徳川家定は幼少の頃から体が弱く、後を継ぐ子供がいなかったため、後継者問題に発展。徳川慶福(14代将軍・徳川家茂)を推す南紀派と一橋慶喜(15代将軍・徳川慶喜)を推す一橋派に分かれ、幕府内で対立が起こっていました。
しかし、慶喜を推していた老中・阿部正弘や薩摩の島津斉彬が死去、一橋派は勢いを失い、14代将軍は徳川慶福が徳川家茂と名を改め就任します。
徳川慶喜が15代将軍
大老に就任した井伊直弼は、天皇勅許の下で条約に調印することを望んでいましたが、孝明天皇は強固に攘夷を望んでおり、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印。(※実際に調印したのは下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震のようです)
そのことが原因で井伊直助は、桜田門外の変で暗殺されます。
家茂は1866年に第2次長州征伐へ向かう途中大坂城で病に倒れます。
孝明天皇は典薬寮の医師を大坂へと派遣し、江戸城からも正室である和宮の侍医などが派遣されましたが、治療の甲斐なく7月に死去。
一橋慶喜(徳川慶喜)が15代将軍となりました。
翌年の1867年1月に孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位。大政奉還は明治天皇と徳川慶喜によって行われました。
不思議な感じがしますね….尊攘運動などが起こっていた時に中心となっていた人たちはこの世を去り、その後継者たちによって世の中が変わっていくのです。
武力による倒幕
1867年6月に京都で徳川慶喜を中心とした四候会議(島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂)に後藤象二郎が呼ばれていました。
四候会議に向かう船の中で坂本龍馬が後藤象二郎に提示した「船中八策」の中に大政奉還論が提唱されており、それが採用されたと言われています。(※船中八策については龍馬が考えたものではないとする説もあります。)
当時、八月十八日の政変により、朝廷内ひいては京都から長州藩ら攘夷派を追い出すのに一役買った薩摩藩でしたが、政局(一桑会)から外されます。
有力な藩が政治に参加する公武合体を考えていましたが、参預会議が崩壊したことで徳川慶喜や幕府の役人との対立が深まりました。
その結果、長州と薩長同盟を締結し、武力による倒幕を目指すようになります。
その後、幕府の権威は失墜しており、遅かれ早かれ桂小五郎と西郷隆盛率いる薩長の軍勢が幕府に対して挙兵することは目に見えていました。
そうなると今の幕府では糸貯まりもありませんね。
平和的な政変
そこで龍馬が考えたのが、平和的な政変ができる大政奉還でした。
後藤が主張したこの説に薩摩藩の小松帯刀らも賛同し、薩土盟約が締結されました。この盟約ですが、薩摩藩には思惑がありました。
それは慶喜が大政奉還を拒否するのではないか、そうしたらそれを口実に「堂々と武力倒幕ができる!」薩土盟約にはこれを見越して、土佐藩の出兵や将軍職の廃止を建白書に記入することが約束されていました。
しかし、山内容堂が大政奉還を藩論とすることは認めたものの、出兵については同意しなかったため、武力倒幕を進めていた薩摩藩との盟約は解消され、土佐藩単独で大政奉還の建白書を提出しました。
これを徳川慶喜が受け入れて大政奉還が行われました。
この時、朝廷から薩摩と長州には倒幕命令が出されており、慶喜は大政奉還を行うことで薩長が武力倒幕を行う大義名分を失わせる目的があったようです。
また、慶喜は今まで政治は幕府が行っており、政治に疎い朝廷には政治は行えないと考えており、大政奉還後も政局に関われると考えていたとも言われています。
その後、無益な衝突を控えるためにおとなしくしていた慶喜でしたが、江戸では庄内藩士らが江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするなどの事件が起こり、新政府軍と旧幕府軍は刃を交えることになるのです。