1866年に徳川幕府を武力倒幕するため、薩摩藩と長州藩の間で締結された軍事同盟が薩長同盟です。
中岡慎太郎が長州藩の桂小五郎を説得し、薩摩藩の西郷隆盛を坂本龍馬が説得した上で亀山社中が両者の問題を相互支援する形で取り持ち形になりました。
その結果、犬猿の仲と言われていた薩摩藩と長州藩が同じ倒幕という道を歩み始めたきっかけにもなった同盟です。
坂本龍馬は寺田屋遭難事件の際に京都伏見の薩摩藩邸に匿われ、その後、その時に手に受けた刀傷を癒すために鹿児島へと向かっています。
ここだけで判断すると坂本龍馬と西郷隆盛の仲は非常に良かったように思えますが、本当の所はどうだったのでしょうか。
才覚を発揮する西郷隆盛
西郷隆盛は薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、1841年に元服、1844年には郡奉行であった迫田利済の配下となり、郷中の二才頭(郷中教育のグループリーダー)になりました。
1851年2月に島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主となった翌年に薩摩藩士の伊集院兼寛の姉・敏と結婚しましたが、祖父・父・母を相次いで亡くし、1853年に家督相続を許可されました。
1853年12月にペリーが浦賀に来航し、この頃の坂本龍馬は江戸で遊学中で、品川の警備に招集されています。
1854年に島津斉彬の江戸参勤の際、江戸へと赴き、4月御庭方役に抜擢されました。
この「御庭方役」というのは基本的には庭木の手入れなどを行う役目のことですが、当時は身分が高くないものを側に置くための秘策でもありました。
西郷隆盛は御庭方役として勤めながら、斉彬が自分の考えを書いた紙を庭に捨て、それを庭の手入れをしている西郷が拾い、人に見られぬような場所で中を読み、西郷の考えを書いて斉彬の机の上に置くといったようなやり取りをしていたようです。
このようなことが繰り返されるうちに斉彬は西郷の才覚を認め、他に並ぶものはいないと賞賛していました。
西郷は独立心が強く、自分以外には扱えないとも言っていたそうです。
このように西郷隆盛は、薩摩藩士として藩主にも認められ、「禁門の変」では薩摩の大将を務めています。
龍馬との出会い
を引き合わせたのが、幕臣であった勝海舟です。
この頃には薩摩藩の顔役になっていた西郷隆盛と海舟が設立した神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬。
1864年8月頃に勝海舟の紹介で出逢い、その時の西郷のことを「釣鐘の例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうと思います」と評価している。
寺田屋遭難事件の際には「嬉しかったのは西郷が京の藩邸でこの事件の一報を聞き、まず、西郷自身が短銃に弾を込めて、私を伏見まで助けに来ようとしてくれたことです」と1866年12月に兄・権平らに宛てた手紙の中に書いている。
この手紙の中に「薩長の間を行き来している坂本龍馬は、幕府のためにはならない。是非殺すように」という命令が幕府から出ていることを伝え聞き、「この話を聞いた薩摩屋敷の小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)なども皆、大笑いいたし、かえって私が幕府のあわて者に出会って、図らぬ幸いだ、と申し合ったことです。」と書いています。
これは幕府から坂本龍馬が襲撃を受けたことにより、龍馬を助けた薩摩藩は幕府の敵となり、薩長による武力倒幕に反対していた薩摩藩の保守派を説得するしかないと西郷が腹を決める決定打になったからです。
龍馬を匿った西郷隆盛
寺田屋遭難事件で手に刀傷を負った龍馬は、藩船で薩摩へと向かい霧島神社や高千穂の天逆鉾を伴侶である楢崎龍と訪れるなどしています。
これが日本初の新婚旅行と言われており、薩摩での療養を楽しんだ様子が手紙に残されています。
それを読む限りでは西郷隆盛の顔がきき、追われることもなく穏やかに日々を送っていたといった印象を受けます。
仲が良かったというよりは、お互いに新しい日本を創るために必要な人物として頼りにし合うような関係だったのかもしれません。