岩崎弥太郎(1835年1月9日~1885年2月7日)は、土佐藩の地下浪人の家に長男として生まれ、家は貧しかったものの勉強熱心だった弥太郎は12歳の時に儒学者・小牧米山に弟子入り。
14~15歳の頃には詩才を発揮し、当時の土佐藩主・山内豊照にも漢詩を披露するほどに成長していた。
1854年、江戸詰めとなった土佐藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ行き、昌平坂学問所の教授・安積艮斎の見山塾へ入塾しました。
しかし、1856年に酒癖が悪かったらしい父の岩崎彌二郎が酒席で庄屋と喧嘩し、投獄されたことを知って土佐へ帰国。
父を許してくれるように懇願しましたが、逆に弥太郎自身も投獄されてしまいました。
獄中も同じ房に入っていた商人から商法や算術を学び、7ヵ月後に釈放され苗字帯刀を剥奪の上、井ノ口村から追放されてしまいます。
小林塾に入塾
弥太郎は1855年に参勤交代に伴い江戸へ行きますが、酒席の際に旗本を殴って参政を罷免されます。
その後、1858年3月に土佐へ戻り、蟄居の身となっていた吉田東洋の私塾「少林塾」へ入塾します。
小林塾では、板垣退助や後藤象二郎と出会います。
弥太郎が東洋の目にとまったのは、後藤象二郎が出された宿題の回答があまりにも出来すぎていたからでした。
吉田東洋が後藤象二郎に問い詰めると弥太郎が書いたことを告白。それから岩崎弥太郎は、吉田東洋から一目おかれる存在になりました。
同じ年の4月に井伊直弼が大老に就任し、6月には日米修好通商条約に調印、9月には安政の大獄が始まりました。
このような情勢の中、吉田東洋は土佐藩の政治に再び参加、富国強兵論に基づき藩政改革を行う中で、少林塾の塾生であった板垣退助や後藤象二郎など有能な人材を積極的に登用します。
藩の財政の窮地を脱するために長崎へ向かう調査団の中に吉田東洋の推薦により、岩崎弥太郎も名を連ねることになります。
吉田東洋の暗殺
弥太郎は吉田東洋の下で土佐勤王党の監視や脱藩者の探索などを行う一方で長崎へ赴き、海外事情を見聞きしました。
しかし、異国人と料亭などで交流し続けた結果、藩費を浪費し、金策のために無断で土佐へ戻るなどしたため、職を解かれ謹慎処分になります。
その後、1862年2月に高芝玄馬の次女・喜勢と結婚しましたが、同年の4月吉田東洋が土佐勤王党の党員に暗殺される事件が起きます。
弥太郎は井上佐一郎と共に犯人を追って大坂へ向かいましたが、その頃の京都・大坂では尊攘派が勢いを持っていた時期であったことから犯人捕縛を断念し、土佐へ帰郷しています。
僅かな資金を基に材木商へと転身を図りましたが失敗し、農業に従事する日々が続きました。
後藤象二郎
坂本龍馬と岩崎弥太郎を結び付けるカギとなるのが後藤象二郎です。
吉田東洋の少林塾で岩崎弥太郎と共に学び、宿題を弥太郎に代筆させバレたあの後藤象二郎です。
彼は1858年、吉田東洋の推薦で幡多郡奉行となり、1860年には大阪藩邸建築のための普請奉行を命じられました。
翌年の1861年には御近習目付となりますが、1862年に吉田東洋が暗殺されたことを受けて解任、江戸で英語や航海術を学びました。
1864年藩政に復帰すると山内容堂の下で大監察や参政につき活躍しています。
1865年、薩摩藩と長崎の商人・小曽根家からの援助を受けて海軍操練所の元メンバーと共に坂本龍馬が亀山社中を結成。
航海術などの専門的な知識を生かし、航路による物資輸送などを開始します。
1866年に軍備強化を急いでいた土佐藩は参政・後藤象二郎が富国強兵を目指す藩の機関として「開成館」を創設。
欧米の商人から船舶や武器を輸入し、藩の特産品でもある鰹節や木材、火薬の原料となる樟脳を販売していました。
九十九商会から三菱財閥へ
軍備強化を急いでいた土佐藩は、長崎のグラバー商会と取引をしていた龍馬の亀山社中に目をつけます。
11月に溝淵広之丞を介して坂本龍馬と接触を図り、1867年1月後藤象二郎と坂本龍馬は会談し、この結果、龍馬たちの脱藩は許され、亀山社中は土佐藩の外郭組織として名前を「海援隊」と改めました。
この頃、土佐藩の商務組織の主任兼長崎留守居役として常駐し、藩の貿易責任者として欧米諸国の商人と渡り合い、実業家としての腕を磨いていた弥太郎は正式に土佐藩の組織となった海援隊の経理を担当しました。
そんな時期、大洲藩から借りていた「いろは丸」が紀州藩の明光丸と衝突して沈没。
この事件では、徳川御三家を相手に損害賠償交渉が苦戦していました。
坂本龍馬が紀州藩と一戦を交える覚悟を決めた頃、龍馬に代わって弥太郎が交渉に参加し、紀州藩から70000両の賠償金を支払わせることに成功しています。
その後、1867年大政奉還がなされましたが、その年の12月、京都近江屋にて坂本龍馬が暗殺されています。
龍馬亡き後の海援隊は、後藤象二郎が土佐商会、岩崎弥太郎が九十九商会として事業を継承し、弥太郎は後に三菱商会へ発展させて三菱財閥へと成長していくのです。