土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、元福井藩主で幕府の政治総裁職にあった松平春嶽に謁見し、当時の幕府軍艦奉行並の職にあった勝海舟への紹介状を受け、勝海舟の屋敷を訪問したことで弟子となります。
「脱藩」というのは、親族に至るまで処罰されることもあるほどの重大な犯罪として扱われていた時代でした。
勝海舟が山内容堂に取り成したことで龍馬の脱藩の罪が赦免され、海舟が起こした私塾に土佐藩士が入塾も追って認められました。
海軍操練所の設立
龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために尽力し、海舟も軍艦に幕府の要人や諸藩の藩主を乗せるなどして海軍を設立することの必要性をアピールしました
1863年5月、ついに海軍操練所の設立を認められた海舟は同時に私塾の開設も認められます。
大がかりだった操練所の開設には時間がかかったため、先に私塾が始動。
この私塾には土佐藩の望月亀弥太や高松太郎、安岡金馬、鳥取藩の黒木小太郎、紀州藩の陸奥宗光なども入塾しており、坂本龍馬が塾頭を務めました。
幕府からの資金だけでは操練所の開設には足りなかったため、海舟は福井に龍馬を派遣し、松平春嶽から金五千両の資金を借りることに成功します。
2つの事件に関与
いよいよ操練所が始動すると操練所では幕臣の子弟たちが学び、海舟の私塾に入っていた龍馬らや諸藩から入門したものも修練を重ねました。
しかし、池田屋事件が起きるとその犠牲者の中に龍馬と共に海軍塾で学ぶ望月亀弥太がいました。
さらには金門の変(蛤御門の変)では、幕府と敵対した長州軍に海軍塾の安岡金馬が名を連ねていました。
この二つの事件に海軍塾生が関わっていたことで、海軍操練所が幕府に仇なす存在なのではという疑いをかけられます。
10月には勝海舟は軍艦奉行の任を解かれ、江戸へ戻るように命じられ、翌年3月に海軍操練所が正式に廃止になりました。
翌月4月、海舟が江戸へ帰還する前に西郷隆盛に預けられていた龍馬たち海軍塾生は、潜んでいた薩摩藩邸から船で薩摩藩へと向かいます。
薩摩藩の船で無事に薩摩まで辿り着いた龍馬は、薩摩藩の家老である小松帯刀と共に長崎へと向かいました。
そして薩摩藩と長崎の商人・小曽根家の援助を受けて龍馬たちが設立したのが「亀山社中」でした。
日本初の商社「亀山社中」
亀山社中は日本で最初の商社と言われており、名前の由来は拠点を構えた「亀山」の地名と仲間を意味する「社中」を組み合わせたものでした。
その後、下関の伊藤助太夫家や京都にも事務所を設置し、活動の場を広げていきます。
亀山社中は長崎のグラバー商会と取引し、銃や火薬などを藩に納品、利益を上げていました。
その他、船を利用した物資の輸送や航海術訓練なども行い、武器弾薬の取引を制限されていた長州藩に薩摩藩名義で購入した武器を横流しし、長州藩からは薩摩藩で不足していた米を調達し薩摩藩に納品するなど互いの相互支援を支えることで、桂小五郎と西郷隆盛に同盟締結を決意させています。
さらにイギリス製蒸気軍艦ユニオン号の購入に成功し、その運行は亀山社中が行いました。
龍馬が実戦に参加
第二次長州征伐が開始された際、長州藩の要請に応じて参戦。龍馬はユニオン号を指揮して実戦に参加しました。
この出陣が龍馬にとって最初で最後の実戦だったと言われています。
この戦いでは長州藩は龍馬が調達した最新式の西洋兵器を装備していたのに対し、旧式の装備しかしていなかった幕府軍は圧倒的に不利であり、長州軍の連戦連勝になりました。
幕府軍の敗戦が続おたことから心労が重なった将軍・徳川家茂は病に臥せり、21歳という若さでこの世を去ります。
この時、亀山社中はユニオン号を長州藩へと引き渡すことになり、船を失いましたが、薩摩藩からワイルウェフ号の代わりとなる帆船「大極丸」が再び供与されます。
軍備強化に努めていた土佐藩の参政・後藤象二郎と龍馬の会談によって許され、亀山社中のメンバーを基にした土佐藩の外郭団体「海援隊」が結成されました。