1867年6月9日、坂本龍馬と後藤象二郎は長崎から兵庫へと向かう船に乗っていました。
京都では15代将軍・徳川慶喜、伊達宗城、島津久光、松平春嶽、山内容堂による四候会議が開かれており、そこに参加していた山内容堂に後藤象二郎が呼ばれていたからです。
その船内で坂本龍馬が後藤象二郎に提示したと言われている政治網領が「船中八策」です。
船中八策はその名のとおり八つの項目からなっています。
1:天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
2:上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
3:有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事
4:外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
5:古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
6:海軍宜ク拡張スベキ事
7:御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事
8:金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設ケクベキ事
後藤象二郎に口頭で伝えたこの政治網領は、長岡謙吉によって書き起こされ、内容は1から順に大政奉還論・議会開設・官制改革・条約改正・憲法制定・海軍の創設・陸軍の創設・通貨政策になります。
これは明治新政府の「新政府綱領八策」の元となり、新政府の中心となる人物の所は空欄になっていたそうです。
船中八策を考えた人物
この船中八策ですが、龍馬が書いた草案のようなものや長岡謙吉が書いたという原本もありません。
また、船中八策を龍馬が考えたという明確な証拠が残っていません。
そのため、船中八策は熊本の横井小楠が作成した「国是七条」という政府の基本方針を示したものを基に考えたという説、他に上田藩の兵学者で政治思想家だった赤松小三郎が提出した建白七策が基となっているという説もあり、どれも船中八策と似た内容になっているのです。
坂本龍馬は横木小楠に国是七条の説明を受けたと言われており、赤松小三郎は長崎海軍伝習所で勝海舟の門下だった人で、1867年5月に前福井藩主・松平春嶽に建白書を提出し、島津久光と江戸幕府にも春嶽に提出したものと同じ建白書を提出しています。
龍馬自筆による船中八策
龍馬が考えたとされる船中八策の現物や写しは発見されていませんが、新政府綱領八策について、龍馬の自筆によるものが2枚残されている。
これは国立国会図書館と下関市歴史博物館(旧下関市長府博物館)に所蔵されています。
下関市歴史博物館では、現在展示されているのかどうかわかりませんでしたが、国立国会図書館に所蔵されているものに関しては国立国会図書館のデジタルコレクション内で見ることができます。