265年間という長い間続いた江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が天皇へと政権を返上し、後に天皇から任ぜられた征夷大将軍職を辞職した日本の歴史の中でも大きなイベントとされているのが大政奉還です。
征夷大将軍というのは元々、奈良時代頃に蝦夷討伐のために編成された軍隊の総大将のことで、源頼朝が鎌倉幕府を成立させてからは、幕府の最高権力者として朝廷から任せられた実質的に政治の実権を握っていました。
それを天皇に返上し勅許され、その後の「王政復古の大号令」により征夷大将軍職は廃止されました。
大政奉還の本当の狙い
船中八策の一項目
1 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)
というのが大政奉還のことです。
船中八策は龍馬が後藤象二郎に話し、それを後藤が山内容堂に進言し、徳川慶喜に建白を出したことで大政奉還が行われたのですが、これには狙いがありました。
先ず、武力討伐を目指す倒幕派の目的を失わせることでした。
そして、権力を返上した上で朝廷は政治に疎いから政局には関わっていこうという考えです。
徳川慶喜は、権威を失った幕府という体制のまま身を滅ぼすよりも、最高権力を返上して政治の上で上手い事生き残っていく方法として大政奉還を選択したということです。
倒幕の動き
1853年の黒船来航から日本は日米和親条約を締結し、1858年には日米修好通商条約を締結。
幕府にとっては天皇の理解を得られないままの条約締結となり、苦渋の決断だったわけですが、政治にも疎く海外情勢も全く知らない孝明天皇は幕府に対して攘夷を強く求めました。
「天皇が攘夷を望んでいるのに幕府はなにやってんのさ、幕府倒しちゃおうぜ!」と長州藩を中心とした尊攘過激派の志士達は上洛。派手に倒幕のための行動を起こすようになりました。
これには天皇自身も困ってしまいます。孝明天皇は攘夷こそ望んでいたものの倒幕は考えていなかったからです。
天皇にとって大迷惑な話ですが、朝廷内には長州藩と考えを同じくするものがおり、天皇が言っていたかのように装い尊攘派の志士達をやる気にさせていたわけです。
そのため、京都ではもっと天皇の役に立とうと盛大に勘違いした志士が行動し、取り締まりを受けて撤退し、また集まるということが繰り返されていました。
これでは治安の維持など叶うはずがありません。
京都守護職・松平容保や伏見奉行所などが見廻りを強化し、尊攘派の志士を取り締まりましたが、2度目の長州征伐では頼みの綱であった薩摩藩は動かずに敗北を喫します。
さらには長州藩と薩摩藩が薩長同盟を結び、武力による倒幕に向けて動きはじめます。
長州藩は元々過激な倒幕派であり、薩摩藩は政治の中心から追い出されてしまったものの幕府からの評価も高い有力な藩でした。
この二つが手を組んで倒幕のために兵を挙げたら、力を失った幕府に待っているのは敗北です。
そこで大政奉還してしまおうとなったわけです。
これにより徳川慶喜は征夷大将軍職を離職し、その後の王政復古の大号令で正式に征夷大将軍職は廃止されました。
幕府は解体され、政治の中心は朝廷に戻ったわけです。
しかし、武力討伐を目指していた人たちや幕府を守ろうとしていた人たちの勢いは止まらず、その後の戊辰戦争へとなだれ込むわけですが、その話はまた別の機会にしましょう。