倒幕を目論む尊攘派の志士にとって一番身近にいた敵というのが、当時京都の警備にあたっていた京都所司代と京都町奉行所です。
しかし、倒幕を望む尊攘派の志士達は次々に上洛し、天皇の為と尊攘運動を行っていたことから京都の治安は乱れ果てていました。
そこで京都の治安を維持するために編成されたのが京都見廻組です。
京都見廻組は、新撰組と同じく京都市中の警備や不逞浪士の取り締まりを受け持っていた組織です。
上司は新撰組と同じく会津藩主で京都守護職の松平容保です。
新撰組との違いは、新撰組が将軍警備のために江戸で募集された浪士の集まりなのに対し、見廻組は旗本や御家人など身元が確かな人々で構成されていました。
この二つの組織は役割を同じくしながらも前者は町人街や歓楽街を主に巡回していたのに対して、後者は二条城や御所など京都の中でも主要な場所の警護をしていました。
また、同じように京都市中の見廻りをしていても新撰組と見廻組が共闘することはありませんでした。
龍馬と見廻組の関係
「見廻組って何?」と思われる方も少なくありません。幕末の幕府派というとどうしても新撰組の方が有名ですね。
しかし、知名度は低くても坂本龍馬との関わりが深いのは見廻組なのです。理由は坂本龍馬を暗殺した犯人だから、というと非常にわかりやすくなりますね。
坂本龍馬暗殺は当初、現場に残されていた鞘に対する御陵衛士の証言や「こなくそ」という方言から新撰組隊士で松山出身の原田左之助だと思われていました。
しかし、大政奉還、王政復古の大号令の後の明治3年、1870年に元京都見廻組の隊士・今井信郎が自供によって坂本龍馬と中岡慎太郎を近江屋で襲撃・暗殺したのは京都見廻組だとが認められました。
ちなみにこの時に使用したとされている刀は、京都の霊山博物館に所蔵・展示されています。
マークされていた龍馬
坂本龍馬は船中八策の中で大政奉還による平和的な政変を提唱しており、幕府側としては敵ではなかった気がしますね。
しかし、薩長同盟締結に尽力しており、仮に大政奉還の建白書が受け入れられなかった時には、路上で待ち構えて慶喜を討つと言っていたそうですから、危険人物の一人としてマークされていたのかもしれません。
一説によると見廻組が坂本龍馬を襲撃したのは、寺田屋事件で龍馬が捕り方を射殺して逃走したため、奉行所に対して「害をなした」という動機があり、見廻組の龍馬暗殺は職務を果たしただけのようです。
ちなみに近江屋事件に関与したのは、佐佐木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎で、その中でも佐々木、渡辺、高橋、桂が実行犯であると言われています。