これからは拳銃の時代じゃあ!と高杉から送られたスミス&ウェッソンの短銃を懐から取り出し、得意げに見せる坂本龍馬。ものすごくイメージが湧きますよね。
しかし、剣術の腕もなかなかで達人レベルだったようです。
土佐藩の下級武士の家に生まれ、10歳頃に母を亡くし、気弱な少年だったという龍馬は漢学を学ぶ楠山塾に入塾します。
しかし、気弱だったためかいじめられ、抜刀騒ぎを起こして退塾させられたという過去があります。
気弱な少年・龍馬に武芸や学問、強い精神を叩きこんだのはスーパー姉さん・乙女さんでした。
乙女の影響
乙女さんは文武両道・三味線や和歌を嗜み、薙刀も強いという色んな意味で当時としては規格外の女性でした。
そして、もう一つ龍馬に影響を与えたのが、父・八平の後妻である伊予の死別した旦那の実家であった川島家でした。
川島家では長崎や下関からの珍しい話を聞き、世界地図や輸入品の数々を見ていたようです。
1848年に土佐藩士で剣客の日根野弁治の道場に入門し、小栗流(日本武術の流派、剣術・抜刀術・手裏剣術・槍術・棒術・薙刀術・柔術など)を熱心に稽古し5年間頑張り続けた結果、「小栗流和兵法事目録」を得ています。
目録を得た1853年、坂本龍馬が19歳の時、剣術修行の為に江戸へ自費遊学に出かけています。
そこで北辰一刀流(剣術・薙刀術など)の千葉道場の門人になり、千葉周作の弟・千葉定吉の下で稽古を始めました。
江戸へ剣術修行へ
遊学中だった龍馬は招集され品川にある土佐藩下屋敷の警備にあたりました。
その間、佐久間象山の私塾で砲術や漢学、蘭学を学び、15ヶ月の江戸遊学を終えて土佐に戻ると「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得、日根野道場の師範代を務めます。
国際情勢や海運の重要性を学び、さらに砲術とオランダ語も学びました。
1855年に父の八平が亡くなり、兄の権平が坂本家を相続すると龍馬は再度江戸へ剣術修行に出かけます。
土佐藩邸中屋敷に滞在し、以前の遊学でも学んだ千葉道場の他、千葉周作の玄武館でも一時修行していたようです。
1857年、一年間の予定だった遊学の延長を土佐藩に願い許され、1858年1月には師である千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授け、千葉道場では塾頭を務めるほどの腕前となっています。
さらに1861年には小栗流皆伝目録である「小栗流和兵法三箇條」を授けられました。
北辰一刀流とは
北辰一刀流は、新撰組の藤堂平助や山南敬助、伊東甲子太郎も学んだ流派で「尊王攘夷」「勤王」の志が高いものが多かった流派です。
現在でも水戸や東京にその流れを汲む道場が残っていますが、大日本武徳会による竹刀剣術流派統合により、北辰一刀流の多くが現在の剣道のような形になっていきました。
しかし、北辰一刀流には表武器術以外に居合術があり、これは鞘に納めた状態の刀を抜刀する一撃で相手に攻撃を加える、或いは抜刀し相手の攻撃を受け二の太刀で相手を攻撃する武術です。
近江屋で京都見廻組に襲撃された時、床の間にあった刀で鞘ごと相手の刃を受けたと言われていますが、とっさに北辰一刀流居合術を使おうとして抜刀ができなかったのかもしれません。
そして、中岡慎太郎に刀はないかと尋ねていることから、新しく手に入れた銃も好きだけど、やはり一番頼みにしていたのは学んできた剣術だったのではないでしょうか。