幕末の京都で1862年には薩摩藩の尊王派志士が鎮撫され、1866年には伏見奉行によって坂本龍馬が襲撃されたという二つの事件の現場となった京都伏見の寺田屋。
歴史上では二つの事件を合わせてと呼び、襲撃された場所としての印象が強いですが、この寺田屋には尊王派の志士達が慕う一人の女性がいました。
その人の名は「お登勢」。幕末に詳しくない人でも聞いたことがあるのではないでしょうか。週刊少年ジャンプの漫画「銀魂」にも登場していますね。
このお登勢がいたからこそ尊王派の志士達は、この寺田屋をよく利用していたのでしょう。そのため、寺田屋は2度も事件に巻き込まれてしまったのですね。
今回は二つの事件の舞台となった寺田屋について詳しく解説していきます。
1862年5月21日の
寺田屋騒動とも呼ばれるこの事件は、薩摩藩の尊皇派が当時の薩摩藩主の父で事実上薩摩藩の実権を握っていた島津久光によって鎮撫された事件のことです。
公武合体派であった久光は、秩序を重んじる厳しい性格だったようで西郷隆盛や村田新八、森山新蔵を捕縛し、大阪から藩へ帰るように命じていました。
久光は1862年4月16日に入京し、朝廷から志士鎮撫の命を授かっていました。
あまりにも志士たちの思惑と違う展開に驚いた薩摩藩の過激派は憤激し、諸藩の尊王派の志士たちと共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・坂井忠義を襲撃し、その首を久光に報じることで蜂起を促すことに決めます。
この襲撃にあたり、薩摩藩の長屋をでて伏見の寺田屋に集まることを計画していました。
この計画の噂を聞いていた久光は側近たちを次々と派遣し、説得を試みますがことごとく失敗。そのため、剣術に優れた者たちを集めた鎮撫使を京都へ派遣しました。
23日夜寺田屋に到着した鎮撫使たちは、首謀者である有馬新七に面会を求めて議論を交わしましたが、決着はつかず薩摩藩同士の激しい斬り合いに発展しました。
結果、計画に加わったものの多くが命を落とし、薩摩藩の尊皇派は大きなダメージを受けました。この事件により、朝廷の久光に対する評価は大きく上がることになります。
1866年1月23日の
薩長同盟の会談を斡旋した後に薩摩人として身分を偽り、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行・林肥後守忠交が捕縛、若しくは暗殺しようとした事件でこちらは寺田屋遭難とも言われています。
その異変にいち早く気付いたのは入浴中だった龍馬の妻・お龍でした。お龍は、袷一枚を羽織るとすぐさま裏階段を2階へと駆け上がり、龍馬たちに危機を知らせました。
捕り方たちは肥後守からの上意を主張し迫り、龍馬たちは奉行所の権限が及ばない薩摩藩士であると主張しましたが簡単に見破られ、龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で防戦します。
その場で2名を射殺、数名に傷を負わせますが、捕り方により拳銃を持つ手に刀傷を負いました。三吉は槍で応戦し、その隙に隣の家の壁を壊し、両名は脱出に成功します。
材木屋に隠れた二人は薩摩藩邸に助けられ、すぐに報告を受けた西郷隆盛が軍医を派遣し、薩摩藩邸で治療と警護をしました。
その後、龍馬は伏見の藩邸から二本松の藩邸に移り、再び伏見の藩邸に戻った後は、西郷隆盛の勧めもあって大阪から鹿児島へ渡り、薩摩藩内で湯治しながら身を隠していました。
この時に龍馬は妻のお龍を連れており、日本で初の新婚旅行と言われています。以上の騒動と遭難がになります。
寺田屋のお登勢
寺田屋の女将・お登勢は、大津の丸山町(大津市中央1)にあった宿・升屋を経営していた重助の次女でした。
長い間、お登勢の生家や家族については不明でしたが、東京都の歴史研究家・あさくらゆうさんによって発見されました。
お登勢は18歳の時に伏見の船宿「寺田屋」の6代目・寺田屋伊助の妻になり、一男二女をもうけましたが、伊助は放蕩者だったようで寺田屋の経営は悪化。
お登勢は夫に代わり寺田屋の経営を取り仕切り、姑の面倒も見ていたようです。放蕩者の伊助は、病かあるいは酒の飲み過ぎか35歳で倒れそのまま亡くなってしまったそうです。
その後は寺田屋の女将としてお登勢が家業を続けました。元々お登勢さんが仕切っていたので対して問題なかったでしょうね。
また、寺田屋の船は、他の船よりも人を多く使い漕いでいたため、早く到着すると評判も良かったようです。
世話好きだったお登勢
お登勢は人の世話をするのが趣味という女性で、幕府から目をつけられていた尊王派の志士達を匿ったり、陰から支えていました。
坂本龍馬もその中の一人でお登勢とは懇意にして慕っていたらしく、お登勢宛に書かれた龍馬の手紙はほとんどが頼み事や泣き言だそうです。
当時、寺田屋は薩摩藩の定宿になっていました。寺田屋騒動の際は、お登勢もその場にいて3歳だった次女を竈の中に隠し、帳場を守ったといいます。
さらに命を落とした薩摩藩士の葬儀も取り仕切り、豪胆で肝の据わった女性だったようですね。
この乱闘で被害を受けた寺田屋でしたが、事件後薩摩藩から修復費と迷惑料、藩士同士の斬り合いの口止め料として多額のお金が届いています。
お登勢はそれを資金として畳やふすまなどをすぐに交換し、営業を再開したということです。
災いを福に転換するタイプなのでしょうね。坂本龍馬は姉・乙女に出した手紙の中でお登勢を学問の知識も豊富だと言っています。そんなお登勢だったからこそ、龍馬は安心してお龍を預けることができたのでしょう。
お登勢はお龍を養女とし、お龍の母にも仕送りをしていました。
坂本龍馬らが寺田屋で遭難して以降は、お登勢自身も幕府から目を付けられ、投獄されそうになったこともあるそうですが、牢に入ることなくお登勢さんは1877年に48歳で永遠の眠りにつきました。
寺田屋は度々災難にも襲われていますが、今のような日本があるのは多くの幕末の偉人たちの功績ではありますが、それを陰で支え続けた「寺田屋お登勢」がいたからこそかもしれません。