時は江戸時代末期、幕末と呼ばれる激動の時代に活躍した二大勢力(ざっくり分類)がありました。
一つは幕府を倒し天皇中心の新しい政治体制をつくろうとしていた倒幕派、そしてもう一つは幕府を守ろうとしていた幕府派です。
この二つの勢力は当然のように対立します。
当時、天皇が座し、政治の中心でもあった京都には尊攘派の志士達が多く集まり、その中の一部「尊攘過激派」の志士達が好き放題して京の治安は乱れていました。
通常、治安維持に努めている京都所司代や京都の町奉行の力だけでは抑えきれなかったといいますから、京の町に住む人たちも大変だったことでしょう。
そんな折、将軍・徳川家茂が上洛(※京都に行くこと)することになり、将軍を警護するという名目で江戸では浪士組が結成されました。
新選組の誕生
浪士組が京都に到着した後、この計画の発案者である庄内藩の清河八郎が勤皇勢力と通じており、浪士組を天皇の兵力に使用としていたことが発覚。
その結果、浪士取締役らの話し合いで、清河の計画を潰すために浪士組は江戸へと引き上げることになりました。
しかし、一部の浪士組はそれを拒み、京都に残ることを決めました。それが後に新撰組となる近藤勇を中心とした試衛館の面々と、芹沢鴨を中心とした水戸藩の浪士たちでした。
これらのメンバーは鵜殿鳩翁によって集められ、公武合体を根底とした攘夷断行を目的に壬生浪士組を結成しました。
その後、松平容保の預かりとなり、京都市中の警備と不逞浪士の取り締まりを命じられ、八月十八日の政変(孝明天皇・会津藩など佐幕派・幕政改革派・薩摩藩が武力によって破約攘夷派の公家や長州藩を朝廷から追い出した)の警備に出動し、働きが評価され「壬生浪士組」から新たに拝命した「新撰組」へと隊名を変更しました。
長くなりましたが、新撰組は攘夷を目的としてはいたものの、あくまでも幕府を中心とした国を目指す幕府派(佐幕派とも)の集団なのです。
八月十八日の政変後
幕府側だった薩摩がなぜ倒幕の長州と手を結ぶことになります。
八月十八日の政変後、長州はなりを潜め、さらに公武合体論(薩摩はこれを支持していた)に基づく参預会議が崩壊すると、代わって一橋慶喜(徳川慶喜)、松平容保(会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)による実質的な支配が行われていました。
薩摩藩は政治から外されてしまったわけです。当然、薩摩藩は面白くありません。
そこで、八月十八日の政変により、朝廷から追い出されてしまった長州藩に目を付けたのです。
1864年6月、寺田屋事件で尊攘派の志士を斬殺・捕縛、8月には金門の変(蛤御門の変とも)の鎮圧に参加し、功績を残した新撰組は朝廷・幕府・会津藩から恩賞を下賜され、本拠地も西本願寺へと移しました。
これと同じ年の12月、長州では第一次長州征伐で降伏・恭順の意を示していましたが、高杉晋作が挙兵して勝利。再び尊攘派が勢力を盛り返しました。
龍馬暗殺の犯人
11月15日、坂本龍馬は京都近江屋二階で中岡慎太郎と話をしていたところを何者かに襲撃され、額に相手の刃を受け死亡しました。
坂本龍馬を暗殺した犯人が、松山訛りで「こなくそ」と口にしていたということ、新撰組参謀であった伊東甲子太郎が現場に残っていた鞘(さや)を原田のものだと証言したことから、新撰組隊士で松山出身の原田左之助が犯人ではないかという話もありました。
しかし、現在では新撰組と同じく京都市中の治安警備にあたっていた、京都見廻組の犯行であったというのが有力になっています。
このように見てみると坂本龍馬も新撰組も幕末ではよく耳にしますが、意外と関わりが無いのです。
強いて言えば、京都で反幕府派を取り締まる人たちと、取り締まられる人といったところでしょうか。