坂本龍馬が勝海舟の弟子となり、神戸海軍操練所の設立に東奔西走していた頃、京都では政局を左右するような事件が起きていました。
テレビドラマでも度々描かれることも多いと思いますが、階段落ちの派手なアクションで知られる「」です。
が起きた頃、龍馬は海舟とともに海軍操練所の仕事をしていたため京都にはいなかったのでしょう。
が起きた1864年5月、龍馬は生涯の伴侶となるお龍と出逢い、5月14日には勝海舟が正規の軍艦奉行に就任、神戸操練所が発足しています。
そして、6月17日、龍馬は海舟と下田で会合し、蝦夷地開拓の構想を話していたようです。
そんな中、京都で起きたのがです。一体どのような事件なのでしょうか….今回はについて詳しく解説していきます。
とは?
1864年7月8日京都の三条木屋町にあった旅館・池田屋に新撰組が襲撃した事件です。当時、この池田屋には長州藩・土佐藩などの尊攘派の志士が潜伏していました。そこへ京都守護職配下の新撰組が襲撃してきたのです。
江戸時代は江戸が政治経済の中心地のような気がしますが、幕末は京都が政局の中心になっていました。おそらく御所があったためでしょうね。
尊攘派の志士達は京都に潜伏し、幕府の目をかいくぐり活動していました。尊攘派の中心は薩摩・長州の二大藩でしたが、もちろんその他の藩からも尊王攘夷の思想を持つ志士が京都に多く集まっていました。
そんな中、八月十八日の政変と呼ばれる宮中クーデターで会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を中心とした尊王攘夷派を京都から追放しました。
これにより京都は公武合体派が有利になり、政局は大きく変わりました。
政局交代を受けて10月、薩摩藩の藩主・島津久光が挙兵して上洛、松平慶永・山内豊信など公武合体派の大名がこれに続き、翌年の4月にはさらに松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立します。
朝廷内では鷹司輔煕が関白の座から下ろされ、代わりに親幕的な二条斉敬が関白になりました。
京都を追われた尊攘派は、再び京都での勢力挽回を試みていたため、幕府は京都守護職配下の新撰組に市内の警備や志士の捜索を行わせていました。
新撰組が京都市内を警備していた5月下旬、新撰組の監察の山崎烝・島田魁によって四条小橋上ル東の筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋を継いでいる枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在が突き止められ、会津藩に報告されました。
しかし、監察方が諜報活動で突き止めたというのはフィクションだそうです。
京都新聞HPの2015年7月8日の記事では、歴史地理史学者であり「の研究」著者の中村武生さんによると京都の不穏な空気の中、新撰組は20か所ほど浪士の潜伏先を把握しており、その中の一つが古高邸だったとのことです。
古高は枡屋を継ぎながら尊攘派の志士達と交流しており、長州の間者の大元締として諸藩の大名や公家の屋敷に出入りし、武器の調達や情報活動をしていました。
1864年7月8日、古高の情報を掴んだ新撰組が突入し、古高を捕縛、武器・弾薬は押収され長州藩との書簡なども発見されました。
新選組の近藤勇と土方歳三が捕縛
捕縛された古高は新撰組隊長・近藤勇と副隊長の土方歳三から拷問を受け、自白します。
自白の内容は「八月十八日の政変で京都を追われた長州の尊攘派らが6月下旬祇園祭の前の風が強い日を狙って御所に火を放ち、混乱に乗じて政変の黒幕だった中川宮を幽閉し、京都守護職・松平容保ら佐幕派の大名を殺害、天皇を長州へ連れ去る」というものでした。
新撰組は諸説ありますが、通説によると近藤隊と土方隊に分かれ、それぞれ会合が行われる疑いがある池田屋と四国屋に向かいます。御用改めで池田屋に向かった近藤隊が尊攘派の志士を発見し、突入して戦闘になりました。
最初に踏み込んだ新撰組隊士は新撰組二番隊隊長・永倉新八の手記のよると近藤・沖田・永倉・藤堂の4人で志士は、20人ほどいたようです。
戦闘は2時間におよび、御所焼き討ちの計画を未然に防いだ新撰組の名は一気に広まることになります。
尊攘派は、吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助などが戦死し、大打撃を受けることになります。
しかし、京都留守居役の乃美織江の手記には「桂小五郎は池田屋より屋根を伝い逃れ、対馬屋敷に帰り候」と書き残されています。
をきっかけに長州藩は、金門の変を起こし朝敵と見なされるようになります。
この、先にも書いたように坂本龍馬は関わっていません。しかし、この事件が起きたことにより、龍馬は、海軍操練所の塾生・望月亀弥太を失い、また、土佐勤王党の石川潤次郎も亡くなっています。
そして龍馬が考えていた尊攘過激派を蝦夷地に移住させ、開拓を行うという計画も中止になっています。この計画は老中・水野忠精も承知していたことでした。
そしてや金門の変に塾生が関わっていたことで、坂本龍馬が塾頭を務めていた海軍操練所は廃止となり、勝海舟も江戸に呼び戻されています。
で桂小五郎が殺されていたら、その後の歴史は大きく変わり、龍馬の人生も違ったものになっていたことでしょう。