江戸の末期、幕末と呼ばれる時代に幕府中心の世の中を天皇中心の世の中へと変えようとした人たちがいました。
その中に一人の脱藩浪士でありながら薩摩や長州など大藩を動かし、徳川15代将軍徳川慶喜による大政奉還への道を切り開いた人物こそが坂本龍馬です。
しかし、土佐藩を飛び出し尊王の精神で活動する龍馬は、尊王派から一目置かれるような人物でしたが、敵対している佐幕派からはうとまれる存在でもありました。
そして慶応3年11月15日、京都にあった醤油商・近江屋の母屋2階にいたところを何者かによって暗殺されてしまうのです。
近江屋事件
近江屋事件で龍馬は額に深く斬りこまれ、その他にも数か所に傷を負い、ほぼ即死に近い形で人生に幕を下ろしました。その時一緒にいた陸援隊の中岡慎太郎も凶刃にうたれ事件から2日後に嘔吐し絶命。
近江屋とは先ほども書いたように京都にあった老舗の醤油商でした。
土佐藩から脱藩していた龍馬は寺田屋事件の後、定宿にしていた寺田屋が幕府から目をつけられていたため、拠点を移していました。
そしてこの事件の舞台となった近江屋へは、慶応3年10月頃には移っていました。
近江屋事件があった日は、旧暦で言うと龍馬の誕生日でもありました。
この日は夕方に龍馬の同志で陸援隊の中岡慎太郎が龍馬を訪ねて来ていました。慶応2年9月12日に起きた三条制札事件について話し合うためだったようです。
三条制札事とは、禁門の変以降、長州を朝廷の敵とする内容の高札が掲げられるようになっていました。
その後、慶応元年に行われた第二次長州征伐失敗以降、江戸幕府の権威は失墜し、翌年の慶応年には京都で幕府が立てた制札が引き抜かれると事件が多発していました。
そのため、特に3度に渡り制札が引き抜かれた鴨川の三条大橋では、新撰組が制札の警備にあたっていました。
慶応2年9月12日、新撰組が警備している制札を土佐藩藩士8人が引き抜こうとする動きを見せたため、新撰組の10番隊隊長・原田左之助らが駆けつけ、土佐藩士は逃走。
しかし、土佐藩士の殿を務めた安藤鎌次の奮戦のおかげで5人が逃走に成功しました。
龍馬は即死に近い状態だった
夜に十津川藩の郷士を名乗る人物が龍馬に面会を求め、近江屋を訪れました。取次をした山田藤吉は客人を龍馬に会わせようとしましたが、突然後ろから斬られて翌日死亡。
その物音に龍馬は「ほえたな!」と自ら声をあげたため、暗殺者たちは龍馬の居場所がわかり、階段を上ると龍馬と中岡のいる部屋に侵入し、龍馬らを斬りつけました。
一緒にいた中岡慎太郎は傷を負いながらもまだ息があり、助けを求めていたそうですが、それから2日後に吐き気を催した後、同志・龍馬が待つ冥府へと旅立ちました。
騒動があった時、近江屋の主人であった井口新助は、すぐ向かいにある土佐藩邸に知らせに駆け込み、嶋田庄作と龍馬の使いに出ていた鹿野峰吉が部屋を確認したところ刺客はすでに去った後でした。
犯人はわからず当初は新撰組の関与が疑われていましたが、明治3年に函館戦争で降伏した元京都見廻り組の今井信郎の自白により犯人は、佐佐木只三郎とその部下であるという可能性がもっとも高く通説になっています。
京都の霊山歴史館には、坂本龍馬を斬ったという刀も展示されています。
この事件が起きた近江屋は現存しておらず、今は近江屋があった河原町通りに坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地の碑がひっそりと建っているのみです。
碑が建っている場所は、当時近江屋があった場所の北隣にあたるそうですが、通りに面した店先にひっそりとあるので、気を付けていないと見落としてしまうかもしれません。京都を訪れた際には是非探してみてください。