坂本龍馬の3人の姉
土佐の郷士の家に次男として生まれた龍馬には一人の兄と三人の姉がいました。
兄の権平は土佐藩士で龍馬よりも22歳年上、1855年に龍馬たちの父・八平が死去した後は坂本家の家督を相続しています。
さて、今回は兄よりも有名な龍馬の三人の姉について詳しく解説します。
長女・千鶴
1817年~1862年1月24日。千鶴姉さんは儒学者・高松順蔵(号:高松小埜)に嫁ぎました。義兄にあたる順蔵は私塾を開いており、その門下には近江屋で龍馬と共に遭難する中岡慎太郎をはじめ、石田英吉(海援隊士)や安岡斧太郎(天誅組)がいます。
また、千鶴と順蔵の長男・高松太郎は海援隊士であり、1871年に坂本龍馬の家督を相続し「坂本直」と名乗りました。
ちなみに次男の南海男は、龍馬の兄・権平の養子となって坂本家本家を相続しています。
千鶴の嫁いだ高松家には龍馬も度々足を運んでいたそうで、儒学者であった義兄との交流は龍馬の考えなどに少なからず影響を与えていたことでしょう。
次女・栄
生没年不明。龍馬の2番目の姉なのですが、資料がほとんど残っていません。柴田作衛門に嫁いだことは確かな様ですが、謎が多い人物です。昭和43年に坂本家に縁ある人物が墓所の改修を行った際、地下深くから誰のものかわからない遺髪と遺骨が発見されました。
これらは離縁された後に脱藩する坂本龍馬に刀を渡し、その責任をとって自害したために密葬された栄ではないかと考えられていました。
しかし、現在では龍馬脱藩の際に刀を渡したのは、離縁されて家に戻っていた姉・乙女だと言われており、栄の謎はさらに深まります。
その後、昭和63年に栄の嫁ぎ先である柴田家の墓石と隣り合わせの場所に「柴田作衛門妻」「坂本八平女」、没年が弘化乙巳二年九月一三日と刻まれた一部が破損した墓石が発見されました。
その戒名が「貞操院栄妙」と刻まれていたことから、龍馬の姉・栄の墓であるとほぼ断定されています。
三女・乙女
龍馬の姉といえば乙女姉さんの名前が一番に出てくるくらい有名ですね。身長174cm、体重112kgという大柄な女性で薙刀(なぎなた)を得意とし、その他剣術、馬術、弓術に長け、武芸だけでなく琴や三味線、和歌、経書などにも長けたまさに文武両道、性格も男勝りであったとされています。
10歳の時に実母を亡くした龍馬に剣術や書道を教え、1856年に医師の岡上樹庵と結婚して一男一女をもうけましたが、その後離縁して実家に戻っていました。
龍馬が土佐藩を脱藩した際、蔵から肥前忠広(※刀)を持ち出し龍馬に渡したのが乙女だとされています。
現在、坂本龍馬が書いたとされる手紙は数多く残っていますが、中でも乙女姉さんに宛てたものは多く、有名な「日本を洗濯いたし候」の手紙も乙女姉さんに宛てに書かれたものです。
龍馬に頼りにされていた人物ですね。龍馬の妻・お龍とは不仲であったと言われていますが、乙女がお龍に対して親身になって接していたことがわかっています。
晩年は独と改名し姉・千鶴の子で権平の養子となっていた坂本直寛の下に身を寄せていましたが、ビタミン不足による壊血病に侵され48歳で亡くなりました。