坂本龍馬が書いたとされる手紙は、今現在139通確認されています。数年前にはテレビ番組の中で暗殺直前に書いたと思われる手紙の草稿が見つかり話題になりましたね。
多くの手紙が残っている坂本龍馬ですが一番多いのが、姉の坂本乙女宛となり、その次が下関の豪商「伊藤助太夫」、土佐藩士「佐佐木高行」、「桂小五郎」なども多く手紙を受け取っています。
龍馬が姉に宛てた手紙
有名なのが姉・乙女に送られた手紙の中の「今一度日本をせんたくいたし申し候」の手紙と、お龍と共に刀傷を癒すため、鹿児島へ訪れた日本初の新婚旅行といわれる手紙。
そして通称「エヘンの手紙」と呼ばれる勝海舟の門人となり、可愛がってもらっているという内容の手紙でしょうか。
その他には、兄・権平に形見分けをねだる手紙も有名ですね。
今回はについて詳しく解説していきます。
先に書いた有名な手紙以外にも寺田屋で襲撃をうけた時の手紙などもあるのですが、すべてを紹介することはできないのでいくつかの手紙を紹介したいと思います。
慶応2年(1866年)12月4日 姉・乙女宛
この手紙は坂本龍馬が刀傷を癒すために訪れた霧島から姉・坂本乙女に宛てた手紙です。この時に妻のお龍も同行していて日本初の新婚旅行と言われています。
谷川で魚釣りをしたことや鉄砲で鳥を打ったことなどが書かれています。その他にも霧島山に登り、天逆鉾を見たことも書かれています。
他にもお龍の家族を預かったなども書かれていますが、イラスト入りの手紙というのが、いかにも龍馬らしいお茶目な手紙ですね。
レプリカですが硫黄谷温泉の霧島ホテルで見ることができます。京都国立博物館に所蔵されています。
文久3年(1863年)6月29日 姉・乙女宛
こちらは手紙の一部になりますが坂本龍馬が姉・乙女に宛てた「日本を今一度せんたくいたし申し候」の手紙です。
写真の部分には次のように書いてあります。
姦吏と一事に軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事にいたすべくとの神願にて候。此思付を大藩にもすこむる同意して、使者を内々下さる事両度。然に龍馬すこしもつかえをもとめず。実に天下に人ぶつのなき事これを以てしるべく、なげくべし。
現代語にしてみると…….
悪辣な役人と戦をして打ち倒し、日本を今一度せんたくしたいと思っています。この考えに大きな藩もすこぶる同意してくださり、使者を内々に送ってくれることも度々ありました。しかし、私には仕官するつもりは少しもありません。私に声がかかるなど天下に人物がいないことを知り、嘆かわしいことです。
このような内容になっています。こちらの手紙も京都国立博物館に所蔵されており、同博物館の所蔵品データベースから閲覧することもできます。
次の手紙は番外編です。こちらの手紙は元々書いたのは木戸孝允(桂小五郎)です。
その手紙の裏に龍馬が朱で裏書したもので、1866年正月に交わされた薩長同盟の内容をまとめたものです。木戸孝允が確認を求め、坂本龍馬が内容の確認をし、朱書きしたものです。
当時仲が悪かったと言われている薩摩と長州を結び付けた大切な書簡になります。
この手紙は宮内庁に保管されています。そのため本物を見ることはできませんが、複製されたものが高知県の高知県立坂本龍馬記念館で見ることができます。
いかがだったでしょうか…..今回は紹介しきれませんでしたが、今なら手紙ではなくLINEやメールで済まようなことですが、当時の人々は、手紙でやり取りしていたのですね。
そのおかげで私たちは当時の坂本龍馬の考え方を知ることができ、その文面や文字から人柄を想像することができるのですね。
便利になったこの時代に手紙というのは少し不便な気がしますが、時には手書きの文字で伝えるのもいいかもしれませんね。