カフェーとは?純喫茶誕生の背景と戦前の不純なカフェーの歴史

「純喫茶(じゅんきっさ)」という言葉を聞いたとき、多くの方は「昔ながらの落ち着いた喫茶店」を思い浮かべるでしょう。しかしこの「純」という字には、実は重要な歴史的背景があります。

「純喫茶」の「純」は「純粋なコーヒーを出す店」という意味ではなく、「不純なカフェー」に対置する形で生まれた言葉です。戦前の日本には「不純なカフェー」と呼ばれた風俗的な側面を持つ飲食店が存在し、それと区別するために「純」という字が使われました。

この記事では、日本最初の喫茶店・不純なカフェーの時代・純喫茶誕生の経緯・銀座での喫茶文化の発展を、歴史的背景とともに解説します。

不純なカフェーの時代

1910年代以降、東京・銀座で発展

日本における「カフェー」(当時はこの表記が一般的でした)の発展は、1910年代以降の東京・銀座を中心とした都市部で起きました。

明治末〜大正期にかけて、ヨーロッパの文化・生活スタイルへの憧れが日本の都市部に広まっていました。パリの「カフェ」という文化——コーヒーを飲みながら文化人・芸術家・知識人が交流する場——を日本に持ち込もうという動きが生まれ、銀座に複数のカフェーが開店していきます。

この時期のカフェーは、音楽・絵画・文学などの芸術・文化の話題が交わされるサロン的な空間として機能しており、今日の喫茶店のイメージに近い性格を持っていました。

文化人交流サロンとしての初期のカフェー

日本の近代カフェー文化を語るうえで重要な存在が、「カフェー・プランタン」(1911年開店)です。洋画家の松山省三(まつやましょうぞう)が銀座に開いたこのカフェーは、森鴎外(もりおうがい)・石川啄木(いしかわたくぼく)・荻原朔太郎(はぎわらさくたろう)など多くの文化人・文学者が集まる場として知られました。

女性給仕(女給〈じょきゅう〉)が接客するスタイルも初期から存在しており、それ自体は欧米のカフェ文化を模したものでした。この時期は文化的・知的な交流の場としてのカフェーが理念的なモデルでした。

1930年代、女給が接待する「不純なカフェー」の登場

1920年代後半〜1930年代にかけて、カフェーの性格は大きく変化していきます。

関東大震災(1923年)後の復興景気・大正デモクラシーの雰囲気・モダンガール・モダンボーイの登場という時代的な文脈の中で、カフェーは急速に大衆化・商業化が進みました。女給が接客するスタイルは広まりながら、その接客の内容が次第に風俗的な方向へ変化していきます。

女給が客に対して過度に親密な接待をするカフェーが増加し、実質的に性的なサービスを提供する場として機能するものも現れました。これらが社会的に「不純なカフェー」と呼ばれるようになり、社会問題として取り上げられるようになります。

昭和初期には東京だけで数千軒ものカフェーが営業していたとされており、その多くが「不純」な性格を帯びていたと当時の記録は示しています(諸説あり)。

日本の喫茶店・カフェーの歴史については、Wikipediaの日本における喫茶店の歴史でも詳しく確認できます。

純喫茶誕生の背景

1933年「特殊飲食店営業取締規則」の施行

不純なカフェーの急増を受けて、当局は取り締まりを強化していきます。その法的な節目となったのが、1933年(昭和8年)に施行された「特殊飲食店営業取締規則(とくしゅいんしょくてんえいぎょうとりしまりきそく)」です。

この規則は、女給を置いてサービスを行う飲食店を「特殊飲食店」として指定し、営業許可・場所・時間などについて規制を設けたものです。女給が接待するカフェーは特殊飲食店として管理・規制の対象となりました。

この規則の施行により、カフェーは大きく二つに分かれていきます。女給による接待を提供する「特殊飲食店(カフェー)」と、接待なしに飲食を提供するだけの「飲食店(喫茶店)」という区分です。

接待なしの喫茶店を「純喫茶」と呼称

1933年の規則施行以降、女給の接待を一切行わず、コーヒー・紅茶・軽食を提供するだけの純粋な喫茶店が「純喫茶」と呼ばれるようになりました

「純喫茶」という言葉が正式な法律用語・行政用語として定義されたわけではありませんが、業界・社会的な慣習として定着していきます。純喫茶の経営者・利用者にとって、この呼称は「うちは不純なことをしていない・安心して来られる店だ」という差別化のメッセージでもありました。

「純」=不純でない、安心して利用できる店の意味

「純喫茶」の「純」という字が持つ意味を整理します。

  • 「純粋にコーヒーだけを提供する」という意味ではありません(軽食・ケーキなどを出す純喫茶は多数存在しました)
  • 正確な意味は「風俗的なサービスを提供しない・不純でない喫茶店」
  • 女性・家族連れ・子供でも安心して入れる場所というイメージが込められている
  • 不純なカフェーとの差別化が「純」という字に凝縮されている

この意味の構造を知ることで、「純喫茶」という言葉が持つ歴史的文脈が見えてきます。純喫茶は「本物の喫茶店」という意味ではなく、「問題のある類似業態と自分たちは違う」という宣言として生まれた言葉でした。

純喫茶の歴史については、Wikipediaの「純喫茶」項目でも詳しく確認できます。

日本最初の喫茶店「可否茶館」

1888年(明治21年)、東京・上野に開店

「純喫茶」と「カフェー」の歴史を語る前に、その起点となる日本最初の喫茶店について触れておく必要があります。

日本で最初に「コーヒーを飲む場所」として開店したとされる店が、「可否茶館(かひちゃかん)」です。明治21年(1888年)に東京・下谷(したや、現在の上野付近)に開店しました。

「可否」とは「コーヒー」の当て字(音写)であり、可否茶館は文字通り「コーヒーを飲む館」という意味の店名です。

創業者:鄭永慶、海外経験者

可否茶館の創業者は鄭永慶(ていえいけい)という人物です。

鄭永慶は日本人でありながら、海外(アメリカ・ヨーロッパなど)での生活・留学経験を持つ人物でした。欧米でのカフェ文化を直接体験した経験から、日本にも西洋式の喫茶・社交の場を作りたいという構想を持って帰国し、可否茶館を開店しました(諸説あり・生涯の詳細には不明な点もあります)。

社交場として書籍・新聞・トランプ・将棋・ビリヤード・シャワー室完備

可否茶館の内容は、当時としては非常に先進的なものでした。単にコーヒーを提供するだけでなく、西洋式の社交場・知的交流の場として設計されていました。

可否茶館が備えていたとされる設備・サービスは以下の通りです。

  • コーヒー・紅茶の提供
  • 書籍・新聞の閲覧
  • トランプ・将棋などの遊戯道具
  • ビリヤード台
  • シャワー室(当時としては珍しい設備)

コーヒーを飲みながら新聞を読み・知人と将棋を楽しむ——この発想はヨーロッパのコーヒーハウス文化(17〜18世紀にロンドン・パリで発達した、コーヒーを飲みながら情報・議論を交換する場)の影響を受けたものと考えられます。

1892年に閉店、文化的先駆けとして評価

可否茶館は開店から約4年後の明治25年(1892年)に閉店しました。当時の日本人にはまだコーヒーを飲む習慣が十分に根づいておらず、経営が成り立たなかったとされています。

しかし、西洋の喫茶・社交文化を日本に最初に持ち込もうとした先駆的な試みとして、日本の喫茶文化史においては重要な意義を持つ存在として評価されています。可否茶館の理念——コーヒーを中心とした知的・社交的な空間——は、明治・大正・昭和と時代を経て純喫茶文化として花開いていきます。

銀座での喫茶店文化の発展

「カフェー・プランタン」など文化人・庶民双方が集まる場

可否茶館の閉店から約20年後、日本の喫茶文化は東京・銀座で本格的に発展します。

1911年開店の「カフェー・プランタン」は、日本の近代カフェー文化の象徴的な存在です。フランス語で「春」を意味する「プランタン」という店名が示すように、欧米の文化的な雰囲気を意識した店づくりが行われていました。

1912年には「カフェー・ライオン」も銀座に開店し、銀座はカフェー文化の中心地として発展していきます。これらの初期のカフェーは、文学者・画家・評論家などの文化人が集まる知的サロンとしての性格を持っていました。

都市文化・戦前の風俗を反映

大正〜昭和初期のカフェー文化は、当時の都市文化・社会の変化を色濃く反映しています。

大正デモクラシーの自由な雰囲気・モダンガールとモダンボーイの登場・大衆消費社会の到来——これらが重なって、カフェーは知識人だけでなく広く庶民・サラリーマン・若者が利用する場へと大衆化していきました。

一方で、女給を置いた接待型のカフェーの急増という問題も生じ、カフェーは「文化的な社交場」と「風俗的な場所」という二つのイメージを同時に持つ存在となっていきました。この分裂が、純喫茶という概念の誕生を促したともいえます。

戦前のカフェー文化については、カフェーと喫茶店文化の歴史解説コーヒーメッカのカフェー文化解説記事でも詳しく紹介されています。

現代喫茶店文化の源流

戦後になると、「カフェー」という言葉はほとんど使われなくなり、「喫茶店」という言葉が一般化します。しかし、戦前のカフェー文化が作り上げた「コーヒーを飲みながら時間を過ごす場所」というスタイルは、戦後の喫茶店・純喫茶文化へと継承されました

昭和30〜40年代に全盛期を迎えた純喫茶——コーヒー・ソーダ・ナポリタン・モーニングサービスという文化——は、明治の可否茶館から大正・昭和初期のカフェーを経て形成された文化的積み重ねの上に咲いた花といえます。日本の歴史・文化に関心がある方は、ryoumahistory.comの文化解説記事もあわせてご覧ください。

まとめ:カフェーの歴史的意義

不純カフェーと純喫茶の対比

カフェーと純喫茶の歴史についての要点を整理します。

  • 日本最初の喫茶店:可否茶館(1888年・東京上野)。海外経験者・鄭永慶が開店。書籍・新聞・ビリヤード・シャワー室を備えた社交場。1892年閉店
  • カフェー文化の発展:1910年代以降、銀座でカフェー・プランタンなどが開店。文化人の集う知的サロンとして始まる
  • 不純なカフェーの登場:1930年代に女給が風俗的な接待をするカフェーが急増。社会問題化
  • 規制と純喫茶の誕生:1933年「特殊飲食店営業取締規則」の施行。接待なしの喫茶店が「純喫茶」と呼ばれるようになる
  • 「純」の意味:純粋にコーヒーだけという意味ではなく、不純なカフェーと区別する意味での「純」

社交・文化・都市生活との関係性

カフェー・純喫茶の歴史は、単なる飲食業の歴史ではありません。明治以降の都市化・西洋文化の流入・大衆消費社会の成立・社会の光と影という日本近代史の縮図が、この小さな喫茶の世界に凝縮されています。

可否茶館が夢見た「知的社交の場としての喫茶店」という理念が、不純なカフェーという迂回路を経て、最終的に純喫茶として定着したという歴史は、文化とは単純に発展するものではなく、社会の矛盾や葛藤を抱えながら変容するものであることを示しています。

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