3分でわかる坂本龍馬 https://ryoumahistory.com 今わかる坂本龍馬のすべて Tue, 28 May 2019 05:40:07 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.7.7 https://ryoumahistory.com/wp-content/uploads/2018/11/cropped-125155-32x32.png 3分でわかる坂本龍馬 https://ryoumahistory.com 32 32 坂本龍馬の観光地・名所【京都編】 https://ryoumahistory.com/kankochi/kyoto.html Thu, 23 May 2019 01:41:50 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=538 そして舞台は京都へ移ります。 京都にももちろん坂本龍馬ゆかりの地は沢山あります。京都は羨ましいくらいに様々な歴史の舞台となっていますね。毎日史跡を巡り歩き、悠久の時に想いを馳せたいものです。では京都にある龍馬ゆかりの地を

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そして舞台は京都へ移ります。

京都にももちろん坂本龍馬ゆかりの地は沢山あります。京都は羨ましいくらいに様々な歴史の舞台となっていますね。毎日史跡を巡り歩き、悠久の時に想いを馳せたいものです。では京都にある龍馬ゆかりの地を巡っていきましょう。

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京都霊山護国神社

京都府京都市東山区清閑寺霊山町1

京都霊山護国神社年中無休、大人300円で見学することができます。

こちらの神社は1868年に明治天皇の命で明治維新の際、国のために奔走し命を落とした幕末の志士の霊を祭るために創建されました。

こちらにある「旧霊山官修墳墓」には坂本龍馬や中岡慎太郎、木戸孝允など1043名の霊が祀られています。

1867年に近江屋で暗殺された坂本龍馬と、中岡慎太郎の墓前には二人の銅像建てられています。

霊山歴史館

京都市東山区清閑寺霊山町1

霊山護国神社の向かいにある霊山歴史館は、幕末の激動の時代を知るための資料が沢山展示されています。

坂本龍馬をはじめとする中岡慎太郎・西郷隆盛・木戸孝允・高杉晋作など倒幕派の志士たちの遺品や敵対していた幕府側の新撰組や徳川将軍・徳川慶喜、松平容保の資料も多く展示されています。

中には近江屋で坂本龍馬暗殺のときに使用されたという刀も展示されています。

寺田屋

京都市伏見区南浜町263

寺田屋京都で坂本龍馬ゆかりの地といえば、その代表格の一つは間違いなくココ、寺田屋でしょう。

龍馬が京都に来て出逢い、後に妻となったお龍が襲撃してきた伏見奉行の捕吏から、龍馬を逃がしたというのはあまりにも有名な話です。また、1862年には「寺田屋騒動」という薩摩藩の内紛が起きた場所でもあります。

ここには龍馬の写真なども展示されており、当時のものではないものの幕末の雰囲気を味わうことが出来る建物も魅力。見学料は大人400円。予約すれば宿泊することも可能です。

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坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地

京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩谷町

ここはかつて醤油商・近江屋があった場所です。

近江屋は土佐藩御用達の店で、そこに匿われていた坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された地でもあります。1867年11月15日のことでした。

暗殺者には諸説ありますが、京都見廻組という説が有力です。霊山歴史館には龍馬を斬ったとされる刀があり、持ち主は、京都見廻組の桂早之助だそうです。現在は碑が建っているだけですが、龍馬最期の地です。

中岡慎太郎寓居之地碑

京都市中京区河原町四条上ル鍋屋町

龍馬の盟友で近江屋で一緒に暗殺されてしまった中岡慎太郎が脱藩後に身を寄せていた土佐藩御用達書林・菊屋の跡です。

龍馬の陰になってしまい、あまり目立つことがない中岡慎太郎ですが、龍馬の海援隊と対に成る陸援隊の隊長を務めました。

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土佐藩邸跡碑

京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル下樵木町

ここには土佐藩邸がありました。

近くに土佐稲荷がありますが、この稲荷は元々土佐藩邸内にあったもので、境内には小さいですが坂本龍馬の像が建っています。土佐藩邸は脱藩を赦免された龍馬が7日間謹慎していた場所です。

池田屋騒動之址碑

京都市中京区三条通木屋町西入中島町

池田屋騒動之址碑湯浅喜右衛門と名をかえて馬具商を営んでいた勤王の志士・古高俊太郎が、新撰組に捕縛されクーデター計画が発覚。

それを阻止するべく1864年6月5日新撰組が志士たちが集まり密談していた寺田屋を急襲。突入した新撰組は局長・近藤勇、一番隊隊長・沖田総司ら4人。

志士たちの多数は捕縛され、9人の志士が命を落としました。この時、龍馬と仲が良かった望月亀弥太も犠牲になりました。

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武市瑞山先生寓居之跡碑

京都市中京区木屋町姉小路東側上大阪町

武市瑞山は土佐勤王党を結成した人物で1862年に前土佐藩主・山内容堂に従い上洛。応接役として各藩の藩士と交流しました。

翌年1863年には京都留守役となりますが吉田東洋が暗殺され、それが勤王党の仕業とされたことから党への弾圧が厳しくなりました。

1864年岡田以蔵が捕縛され土佐へ送還されると、拷問に耐えかねて次々と自白。ついに瑞山は土佐へと呼び戻され切腹させられてしまいました。

この時、更なる自白を恐れた瑞山の実弟・田内恵吉は拷問に耐えかねて服毒自殺、島村衛吉は拷問死、岡田以蔵・久松喜代馬・村田忠三郎・岡本次郎の自白した4人は斬首となり獄外の同志や協力者は無事でした。

いかがでしたか?坂本龍馬が生まれ育った高知県と幕末の動乱の舞台となり龍馬最期の地となった京都の龍馬ゆかりの地を紹介しました。

それでもこれはほんの一部です。

土佐の太平洋を見て龍馬は何を思い、未来に何を描いたのか。京都で幕府側の人間と対峙しながら何を見て何を考えていたのか。今となっては残された資料を読み解き、探ることしか私たちにはできません。

龍馬が見ていた景色とは違っているかもしれませんが、それでもそこに彼がいたのだという思いを感じながら旅をしてみるのはいかがでしょうか?

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龍馬と関わった人物② https://ryoumahistory.com/kanren/kanren2.html Fri, 19 Jul 2019 05:11:48 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=449 後藤象二郎 後藤象二郎(ごとうしょうじろう:1838年~1897年)は、馬廻格の土佐藩士・後藤正晴の長男として生まれ、幼くして父を亡くしてからは義理の叔父にあたる吉田東洋に養育されました。 東洋が参勤交代の際、酒宴の席で

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後藤象二郎

後藤象二郎(ごとうしょうじろう:1838年~1897年)は、馬廻格の土佐藩士・後藤正晴の長男として生まれ、幼くして父を亡くしてからは義理の叔父にあたる吉田東洋に養育されました。

東洋が参勤交代の際、酒宴の席で旗本を殴る事件を起こし、土佐で謹慎処分を受けている間に開設した私塾の少林塾(鶴田塾)で板垣退助や岩崎弥太郎らと共に学びました。

さらに柳河藩の藩士・大石種昌に大石神影流剣術を学びます。

1858年、参政として藩政に参加していた養父で師でもある吉田東洋の推薦で藩政に参加。幡多郡奉行となり、1860年には土佐藩大阪藩邸店築のための普請奉行に抜擢されました。

しかし、土佐勤王党により吉田東洋が暗殺されると役を解かれ、1863年に江戸へ行き開成所で英語を会津藩士・高橋金兵衛から航海術を学びます。

およそ一年間の江戸遊学を終えて1864年には藩政に復帰し、前土佐藩主・山内容堂に信頼され大監察につき、さらには参政として公武合体派の中心的人物として活躍しました。

象二郎は東洋を暗殺した土佐勤王党を山内容堂の命によぅて壊滅させ弾圧、参政になってからは産業・貿易などを中心とした経済政策を行いました。

また、時勢の流れを読み、軍備強化を行う際には亀山社中を設立し、輸送や武器の取引に長けていた坂本龍馬に注目。

溝渕広之丞の仲介により龍馬と会見し意気投合、龍馬ら脱藩者の罪を許し、海援隊として土佐藩の外郭組織としました。

京都に呼ばれていた後藤象二郎は坂本龍馬と藩船で移動している時に龍馬から「船中八策」を提言され、山内容堂へと進言し後に徳川慶喜による大政奉還へと繋がっていきます。

新政府成立以降は王政復古の大号令によって主導権を薩長に握られてしまいますが、戊辰戦争が終わった後も象二郎は政治家として活躍しました。

土佐勤王党にいたこともある坂本龍馬にとって後藤象二郎は、武市半平太らを死へ追いやった人物でもありましたが、長崎での会見以降はお互いに頼るところがある盟友となっていきます。

この二人の出会いがなければ大政奉還は成し得なかったかもしれません。
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坂崎紫瀾

坂崎紫瀾(さかざきしらん:1853年~1913年)は、1853年生まれのジャーナリスト。小説家・歴史研究者でもあり、自由民権運動家でもあった人物です。

紫瀾の父親は土佐藩の藩医で江戸の鍛治屋橋にあった土佐藩邸で誕生。

1850年代に日本全国で連発した安静の大地震をきっかけに家族で土佐へと帰国し、父親は開業医となりました。

坂崎紫瀾は土佐藩の藩校「致道館」で学び、すぐに頭角を現した紫瀾は句読師(学校の教員の担当のひとつ)に抜擢されました。

紫瀾は幕末の動乱の中で何かを成したという人物ではないため、明治になるまでの経歴等は不明です。

長く続いた幕府中心の政治が終わりを迎え新しい時代となり、旧幕府軍と新政府軍との戦いである戊辰戦争が終結した1872年(明治5年)、紫瀾は彦根藩の藩校で教鞭をとりましたが短期間で職を辞します。

その後、ギリシア正教の修道士であったニコライの塾や大教院などで学び、1874年には土佐出身の板垣退助とともに「愛国公党」の創立に参加し、同年に大教院の記者となって「教会新聞」に携わりました。

翌年の1875年には司法十五等出仕に任命され、1876年には長野県の松本裁判所に判事として赴任。しかし、判事の職も一年で辞し「松本新聞」の編集長となり国会開設や男女同権論、普通選挙実施など自由民権運動を主張する社説を掲載します。

1878年に高知へ戻ると1880年には立志社の編集長となり、同年9月からは平井収二郎や坂本龍馬が登場する歴史小説「南の海血汐の曙」を連載。

1883年には坂本龍馬を主人公にした「汗血千里駒」を連載し、1912年(大正12年)には「維新土佐勤王史」を出版しました。

今でも坂本龍馬が広く知られているのは、坂崎紫瀾がモチーフとして小説を書き残してくれたおかげかもしれません。
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山内容堂(豊信)

山内容堂(やまうちようどう:(1848年~1872年)は、第15代土佐藩主。後に福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬と並び幕末四賢候と呼ばれました。

容堂は古くからの家臣たちによる藩政を嫌がり、革新派の「新おこぜ組(吉田東洋の私塾・少林塾の塾生たちが中心となり生まれた派閥の蔑称)」から藩政に吉田東洋を起用し、参政職の仕置役に任命すると海防の強化や軍備の西洋化、財政改革、身分制度改革など土佐藩政改革を断行し、藩士の長崎遊学を奨励しました。

その他、後に藩の参政となる後藤象二郎や福岡孝弟を起用しています。

幕府の後継者問題では一橋慶喜を推し、家茂が次期将軍に決まった後は土佐藩主の座を前藩主の弟・豊範に譲ると自身は隠居します。

公武合体思想に基づいて土佐藩内の勤王志士を弾圧し、朝廷に奉仕しながらも幕府にとって良かれという行いをとっていましたが、容堂が謹慎中に土佐藩内ではクーデターが起こり、武市半平太を筆頭とする土佐勤王党が台頭し、吉田東洋が暗殺される事件が起こります。

京都では八月十八日の政変により、攘夷派が朝廷内から追い出されると代わって佐幕派が主導権を握り、容堂の謹慎も解かれたため、土佐へ帰国し藩政を掌握しました。

容堂は吉田東洋暗殺の犯人を捜し、土佐勤王党を弾圧、武市半平太ら幹部を切腹させるなどして壊滅状態へと追い詰めます。

東洋の後を継ぐ参政として後藤象二郎を起用し、大政奉還に向けての動き始めることになるのです。
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日根野弁治

日根野弁治(ひねのべんじ:1815年~1867年)は、1815年土佐藩郷士・市川勇次郎のもとに生を受けました。弁治は次男とも4男とも言われていますが、定かではありません。

弁治は日根野恵吉の下で小栗流を学びました。

日根野道場小栗流は、和術(徒手や短い武器を使用して攻防する技法を中心とした日本の武術で相手を殺傷せずに捕えたり、また、護身術としての役割も果たしています)を主とし、剣術・薙刀術・抜刀術・槍術などを組み合わせた流派ですが、江戸時代には主に和術と剣術を教えていました。

小栗流を学んでいた弁治は、その腕を見込まれ、子供がいなかった日根野恵吉の養子になりました。

弁治は剣術指導役や屋敷弘敷役を歴任、その他にも高知城下の築屋敷で道場を開いており、弁治が郷士の出身だったためか下士の身分の門弟が多く学んでいました。

この弁治が開いた日根野道場には、裕福な家庭ではあったものの商家の分家という立場から土佐藩の下士の家に生まれた坂本龍馬も門下として通っており、14歳~19歳までの5年間剣術などの修行をしています。

ここで龍馬は「小栗流和兵法事目録」を伝授され、同年1853年には剣術修行のために江戸遊学に行くことが土佐藩から許されました。

江戸での遊学では北辰一刀流の小千葉道場で剣術を学び、浦賀にペリーがやってきた時には品川の土佐藩下屋敷の守備にあたっていました。

幼い頃の龍馬は気弱な少年で漢学の楠山塾でもいじめに遭い、抜刀騒ぎを起こして退塾になっていましたが、日根野道場で熱心に剣術に励んでいたことはその後の龍馬に影響を与えたのではないでしょうか。
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澤村惣之丞

澤村惣之丞(さわむらそうのじょう:1843年~1868年)は、1843年に土佐の浪人の子として生まれ、中岡慎太郎や吉村虎太郎と共に間崎哲馬の下で学びました。

1861年に武市半平太らが中心となって結成した「土佐勤王党」に参加。

土佐勤王党には武市半平太の遠縁にあたる坂本龍馬も筆頭加盟者として参加しています。

挙藩勤王を目指した土佐勤王党は、四国や九州へと動静調査のために勤王党の隊士を派遣しており、澤村惣之丞もその一人でした。

薩摩藩の島津久光が上洛するという知らせが土佐に伝わると、この上洛を倒幕のための上洛と勘違いした尊王攘夷派の志士達は、それに参加するべく上洛するものが相次ぎました。

武市の考えはあくまでも挙藩勤王であり、伏見義挙を行うために1862年、吉村虎太郎、澤村惣之丞が脱藩し、次いで坂本龍馬も脱藩しました。

しかし、この上洛は幕政改革の為であったことから島津久光は鎮撫を命じました。これにより攘夷派の計画は消えます。

その後、勝海舟の取りなしによって龍馬の脱藩の罪が許されると土佐藩士が海舟の私塾に入門することを許され、惣之丞も海舟の門人となりました。

惣之丞は龍馬と共に亀山社中及び海援隊の中核として活躍。惣之丞は英語も堪能で海外との交渉役なども務めていました。

1867年に坂本龍馬が京都の近江屋で暗殺された後、容疑者の暗殺計画に参加しましたが失敗に終わり、鳥羽伏見の戦いの際には佐佐木高行に率いられ長崎奉行所を占拠。

その際に惣之丞は酒気を帯びた暴漢を射殺しており、相手が薩摩藩士・川端平助であったことが判明し、1868年に責任をとって切腹。

龍馬にとって惣之丞は同郷の仲間であり、亀山社中や海援隊では頼りになる人物であったことでしょう。
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岡本寧浦

岡本寧浦(おかもとねいほ:1789年~1848年)は、1789年に土佐藩内の土佐国安芸郡安田浦にある浄土真宗の寺院・乗光寺第5世弁翁の子と言われています。

幼いころから勉学に励み、京都の本願寺で仏教について学んでいましたが、儒学を志して寺を甥に譲ると自身は還俗し、篠崎小竹や大塩平八郎、安積艮斎と交流し、大坂で儒学を教えました。

寧浦は備後福山藩に招かれましたが、1838年に当時の土佐藩主・山内豊資から用人格上下3人扶持を賜り、教授館の下役となり、高知城下では私塾を開設し、土佐藩内に陽明学を広めました。

1846年には教授館下役を辞し、私塾の経営に専念。門下生には岩崎弥太郎や河田小龍、奥宮慥斎の他、土佐勤王党の中心人物となった武市半平太や吉田東洋などにも影響を与えたとされています。

岡本寧浦と坂本龍馬に直接関わりがあったかどうかはわかりませんが、岡本寧浦と交流があり門弟でもあった河田小龍が龍馬の姉・乙女の夫である岡上樹庵と親交があったことから河田小龍を通じて寧浦の考え方などは龍馬に伝わっていたかもしれません。

岡本寧浦は1853年に坂本龍馬が江戸に剣術修行で遊学に出た頃に亡くなっています。

河田小龍

河田小龍(かわだ しょうりょう「しょうりゅう」:1824年~1898年)は、1824年に土佐藩の御船方軽格の藩士の家に生まれました。

幼いころから画家の島本蘭渓のもとで学び、16歳ころには土佐藩の儒学者であった岡本寧浦に入門。

1844年には吉田東洋に従って京都へと遊学し、桃山風の画風を基礎として低迷していた京狩野家を再興した日本画家の狩野永岳を師に画を学びました。

このような経歴を持つ河田小龍ですが、一番大きく知られているのは遭難・漂流しアメリカ本土に渡ったジョン万次郎の取り調べにあたったということでしょう。

1852年にアメリカ本国から帰国した土佐の漁師・ジョン万次郎を土佐藩の許可を得て自宅に住まわせ、毎日役所に行って取り調べをする中で万次郎から英語を学びました。

万次郎には自身が読み書きを教え、二人の間には友情が芽生えたといいます。

当時、鎖国状態にあった日本では異国の生活事情などを知るすべは非常に限られており、万次郎が話す異国の話に小龍は大変驚き、挿絵を添えて書き上げた「漂巽紀畧」を藩主に献上しました。

河田小龍は、坂本龍馬の姉・乙女の夫である土佐藩御用医師の岡本樹庵とかねてから親交があり、龍馬に海運による貿易の必要性を説いたと言われており、さらに後に海援隊士となる近藤長次郎や長岡謙吉を紹介したそうです。
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吉村虎太郎

吉村虎太郎(よしむらとらたろう:1837年~1863年)は、1837年に土佐藩の庄屋の家に長男として生まれる。

12歳の時に父の跡を継ぎ北川村の庄屋になり、後に須崎郷浦庄屋となって同じく庄屋・広田家に生まれた明と結婚。

何事もなくいればそのまま庄屋として生きたのでしょうが、虎太郎は間崎哲馬に学問を学び、さらに剣術を武市半平太に学んだことで尊攘思想に傾倒する様になりました。

事件を起こし転任させられていますが1859年に大庄屋に移り、良く働いたといいます。

しかし、剣術の師である武市半平太が中心となって「土佐勤王党」を結成するとこれに参加し、1862年には半平太からの命を受けて長州に赴き久坂玄瑞に手紙を届けるなどしていました。

薩摩国の島津久光が幕政改革の為に上洛すると倒幕のための上洛と勘違いした各国の攘夷志士達は、参加するために上洛をしようと考えます。

しかし、そんな気は全くない久光は鎮撫を要請し、攘夷志士たちの計画は無くなります。

土佐勤王党の参加を訴えましたが、あくまでも挙藩勤王を目指す武市は譲らず、仕方なく虎太郎は脱藩、同志の澤村惣之丞や坂本龍馬もそれに続きました。

公武合体論者の久光はこれの鎮撫を命じ、寺田屋を襲撃させ過激派志士達を粛正しました。

その際、虎太郎は捕えられ土佐へ送還、世情が尊攘になると赦免され1863年2月には京への自費遊学が許されました。

その後、天誅組を結成して藤本鉄石や松本健三郎らと天誅組の変を起こします。

しかし、八月十八日の政変で尊攘派が中央から撤退させられると後ろ盾をなくし、十津川から高取城を攻めましたが大敗、重傷を負って逃走中に襲撃され27歳で自刃しました。

坂本龍馬と吉村虎太郎は土佐勤王党の仲間であり、倒幕のために脱藩した仲でもあります。龍馬が脱藩をするきっかけにもなった人物です。
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吉田松陰

吉田松陰(よしだしょういん:1830年~1859年)は、長州藩士で思想家・教育者でもありました。叔父である玉木文之進の松下村塾で学びます。

松陰は幼少の頃から頭角を現し、長沼流兵学や山鹿流兵学を収めましたが、アヘン戦争で清が西洋の国々に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れであることを痛感します。

その後、西洋兵学を学ぶために1850年九州に遊学へ出かけました。

更に江戸で佐久間象山や安積艮斎に師事し、1851年には肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水にも学びました。

1852年には宮部らと東北旅行を計画しましたが、長州藩からの通行手形を待ち切れず脱藩。

1853年にはペリーが浦賀に来航し佐久間象山と共に黒船を見に行っています。

翌年、ペリーが日米和親条約締結のために再度来航すると渡航を願い出ましたが拒否され、下田奉行所に自首し伝馬町牢屋敷に投獄され、長州へ送り返されると幽囚となりました。

出獄を許可された後、叔父の塾名を継ぎ松下村塾を開塾し、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿などが学びました。

1858年に幕府が天皇の勅許を待たずして日米修好通商条約を締結してしまったことに激怒した松陰。

破約攘夷を迫り、成し得なかった時には武力によって討ち取る計画を立てていました。

松陰は武力行使のための準備を始めましたが思うようにいかず、藩政に対して不満をもつようになりました。

1859年には儒学者の梅田雲浜が幕府に捕縛され、評定所で幕府から問いただされた松陰は老中暗殺計画を告白してしまいます。

その結果、斬首刑が宣告され、同年、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行されました。

坂本龍馬と吉田松陰は、共に佐久間象山に師事しており、松陰は坂本龍馬にとって兄弟子にあたります。
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吉田東洋

吉田東洋(よしだとうよう:1816年~1862年)は、1816年に土佐藩上士の家に四男として生まれ、兄が早世してしまったため父亡き後、1841年に吉田家の家督を相続しました。

その後、船奉行として出仕し、わずか2ヶ月で郡奉行となり民政に携わるようになりました。

途中、病で無役となるなどしましたが、1851年には近畿地方を中心に遊学し、漢学者の斎藤拙堂や京都の梁川星巌と交流し見聞を広めました。

1853年に土佐藩主の山内容堂によって大目付として抜擢され、同年の12月には参政として藩政改革を行いました。

しかし、参勤交代で江戸へ赴いた折、酒の席で旗本を殴る事件を起こしたため罷免され、土佐に戻り隠居生活を送りました。

隠居中は少林塾(鶴田塾)という私塾を開設し、後藤象二郎や板垣退助、福岡孝弟、岩崎弥太郎など若手の藩士が入塾しています。

彼らは「新おこぜ組」と呼ばれ、後に藩政改革の中で大きな役割を果たします。

1857年に罪を許された東洋は、翌年1858年1月に参政として藩政に復帰し、新おこぜ組のメンバーを中心として開国貿易や軍備の西洋化及び軍備強化などの改革を行いました。

しかし、この改革を断行したことにより藩内の保守派層や尊攘を志す土佐勤王党とは対立関係になり、これにより吉田東洋は1862年5月、家に帰る途中で土佐勤王党により暗殺されてしまいます。

吉田東洋と坂本龍馬には直接的な関わりはありませんが、東洋の弟子である後藤象二郎は坂本龍馬と関わりが深く、東洋が暗殺されて後に土佐藩の参政として活躍していた象二郎は龍馬らの脱藩の罪を許し、海援隊として土佐藩の外郭組織にするなどしています。

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坂本龍馬の愛刀・陸奥守吉行 https://ryoumahistory.com/ihin/katana.html Fri, 15 Mar 2019 04:43:37 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=348 坂本龍馬は北辰一刀流に剣術や長刀術を学び剣の腕もたつ人物でした。 寺田屋事件では高杉晋作からもらった小銃・スミス&ウェッソンⅡ型32口径を持っていたそうですが、襲われた際に捨てたようで実物は現存していません。 このように

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坂本龍馬は北辰一刀流に剣術や長刀術を学び剣の腕もたつ人物でした。

寺田屋事件では高杉晋作からもらった小銃・スミス&ウェッソンⅡ型32口径を持っていたそうですが、襲われた際に捨てたようで実物は現存していません。

このように書くと坂本龍馬は、刀よりは小銃を愛用していたようですが、そんなことはありません。

近江屋で暗殺された際、やはりスミス&ウェッソンのⅠ1/2型を所持していたようですが、とっさに床の間のあった愛刀を手にしますが抜刀する間もなく、相手刃で額を斬り、龍馬は絶命しました。

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龍馬が愛した陸奥守吉行

近江屋で襲われた時に相手刃を愛刀の鞘(さや)で受けたとされるのが、今回の主役となる「銘吉行」です。「陸奥守吉行」という名前の方が有名でしょうか。※写真はイメージです。

審神者の皆様ならお馴染みの打刀、刀剣乱舞では初期刀として選択可能な五振のうちの一振りですね。二尺二寸(約67~68cm)です。

通称・むっちゃん。

この陸奥守吉行は、坂本家に代々伝えられてきた刀とされ、実家を継いでいた兄の権平に頼んで譲り受けたものだとされています。

しかし、当時龍馬は土佐藩を脱藩して長崎を中心に活躍しており、脱藩が重罪とされていた時代。

脱藩者に気軽に接触することは大変難しく、尚且つ家宝ともいえる大切な刀を簡単に送ることもできませんでした。

そこでちょうど土佐藩主・山内容堂に面会に来ていた西郷隆盛に権平は陸奥守吉行を託し、西郷隆盛を通じて龍馬のもとへと届けられることになりました。

その喜びを龍馬は慶応3年6月24日付の権平に宛てた手紙の中に記しており、手紙には…

「そういえば先日西郷から吉行の刀を受け取り、京へいった時にも常に帯刀していました。京の刀剣家にも見せたところ、皆粟田口忠綱くらいに目利していました。この頃毛利荒次が京へきてこの刀を見て欲しがりましたが、私は兄から頂いたものですと自慢しました。」

龍馬が陸奥守吉行を大層自慢に思い、大切にしていたことが伝わってきます。

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龍馬暗殺後の陸奥守吉行

坂本龍馬が暗殺された後、陸奥守吉行は北海道釧路市に移住した坂本家の子孫の方に伝えられていました。

しかし、そこで火災に遭い変形してしまいます。

研ぎ直されたことで元の刃紋は影を潜め、そりもなくなってしまいましたが、じーっと見ていると研ぎ直される前の刃紋もふわりと浮き出て見えるそうです。

また、暗殺された時に鞘(さや)ごと相手の刃を受けたと書きましたが、その時に鞘は割れ、刃が陸奥守の刀身にまで達していたと言われています。その傷も研ぎ直した時に消えてしまっているのでしょう。

この研ぎ直しによって吉行作の特徴である刃紋などが失われてしまったため、真贋(※本物かどうか)が判然としなかった陸奥守ですが、直刃の陰に別の刃紋が見えたことから再研究が行われ、その結果本物だということがわかりました。

現在、刀身は京都国立博物館に所蔵されましたが、常設展示はされていないようです。

また、高知県立坂本龍馬記念館では、京都国立博物館に刀身が所蔵されている吉行と刀工を同じくする陸奥守吉行が所蔵されていますが、こちらも常設展示はされていないようです。

しかし、刀剣をテーマとした企画展示や坂本龍馬をテーマとした展示で、時折姿を見せてくれるので今後の展示予定に期待したいです。

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徳川慶喜と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/kanren/yoshinobu.html Tue, 28 May 2019 03:00:09 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=402 1867年に大政奉還によって政権を天皇へと返上し、征夷大将軍職を辞職、王政復古の大号令をもって征夷大将軍職は正式に廃止されました。 この大政奉還当時の将軍は江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜でした。 先代の徳川家茂と先々代の

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1867年に大政奉還によって政権を天皇へと返上し、征夷大将軍職を辞職、王政復古の大号令をもって征夷大将軍職は正式に廃止されました。

この大政奉還当時の将軍は江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜でした。

先代の徳川家茂と先々代の徳川家定の後継を争っていた人です。

13代将軍・徳川家定は幼少の頃から体が弱く、後を継ぐ子供がいなかったため、後継者問題に発展。徳川慶福(14代将軍・徳川家茂)を推す南紀派と一橋慶喜(15代将軍・徳川慶喜)を推す一橋派に分かれ、幕府内で対立が起こっていました。

しかし、慶喜を推していた老中・阿部正弘や薩摩の島津斉彬が死去、一橋派は勢いを失い、14代将軍は徳川慶福が徳川家茂と名を改め就任します。

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徳川慶喜が15代将軍

大老に就任した井伊直弼は、天皇勅許の下で条約に調印することを望んでいましたが、孝明天皇は強固に攘夷を望んでおり、勅許を得られないまま日米修好通商条約に調印。(※実際に調印したのは下田奉行・井上清直と目付・岩瀬忠震のようです)

そのことが原因で井伊直助は、桜田門外の変で暗殺されます。

家茂は1866年に第2次長州征伐へ向かう途中大坂城で病に倒れます。

孝明天皇は典薬寮の医師を大坂へと派遣し、江戸城からも正室である和宮の侍医などが派遣されましたが、治療の甲斐なく7月に死去。

一橋慶喜(徳川慶喜)が15代将軍となりました。

翌年の1867年1月に孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位。大政奉還は明治天皇と徳川慶喜によって行われました。

不思議な感じがしますね….尊攘運動などが起こっていた時に中心となっていた人たちはこの世を去り、その後継者たちによって世の中が変わっていくのです。

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武力による倒幕

1867年6月に京都で徳川慶喜を中心とした四候会議(島津久光・伊達宗城・松平春嶽・山内容堂)に後藤象二郎が呼ばれていました。

四候会議に向かう船の中で坂本龍馬が後藤象二郎に提示した「船中八策」の中に大政奉還論が提唱されており、それが採用されたと言われています。(※船中八策については龍馬が考えたものではないとする説もあります。)

当時、八月十八日の政変により、朝廷内ひいては京都から長州藩ら攘夷派を追い出すのに一役買った薩摩藩でしたが、政局(一桑会)から外されます。

有力な藩が政治に参加する公武合体を考えていましたが、参預会議が崩壊したことで徳川慶喜や幕府の役人との対立が深まりました。

その結果、長州と薩長同盟を締結し、武力による倒幕を目指すようになります。

その後、幕府の権威は失墜しており、遅かれ早かれ桂小五郎と西郷隆盛率いる薩長の軍勢が幕府に対して挙兵することは目に見えていました。

そうなると今の幕府では糸貯まりもありませんね。

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平和的な政変

そこで龍馬が考えたのが、平和的な政変ができる大政奉還でした。

後藤が主張したこの説に薩摩藩の小松帯刀らも賛同し、薩土盟約が締結されました。この盟約ですが、薩摩藩には思惑がありました。

それは慶喜が大政奉還を拒否するのではないか、そうしたらそれを口実に「堂々と武力倒幕ができる!」薩土盟約にはこれを見越して、土佐藩の出兵や将軍職の廃止を建白書に記入することが約束されていました。

しかし、山内容堂が大政奉還を藩論とすることは認めたものの、出兵については同意しなかったため、武力倒幕を進めていた薩摩藩との盟約は解消され、土佐藩単独で大政奉還の建白書を提出しました。

これを徳川慶喜が受け入れて大政奉還が行われました。

この時、朝廷から薩摩と長州には倒幕命令が出されており、慶喜は大政奉還を行うことで薩長が武力倒幕を行う大義名分を失わせる目的があったようです。

また、慶喜は今まで政治は幕府が行っており、政治に疎い朝廷には政治は行えないと考えており、大政奉還後も政局に関われると考えていたとも言われています。

その後、無益な衝突を控えるためにおとなしくしていた慶喜でしたが、江戸では庄内藩士らが江戸の薩摩藩邸を焼き討ちするなどの事件が起こり、新政府軍と旧幕府軍は刃を交えることになるのです。

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中岡慎太郎と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/kanren/shintaro.html Wed, 29 May 2019 03:00:22 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=404 坂本龍馬の盟友であり、共に近江屋で遭難し命を落とした中岡慎太郎。 坂本龍馬が有名過ぎるためか、あまり大々的に取り上げられることはありませんが、龍馬の功績と捉えられることが多い薩長同盟も中岡慎太郎がいたからこそ成ったと言っ

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坂本龍馬の盟友であり、共に近江屋で遭難し命を落とした中岡慎太郎。

坂本龍馬が有名過ぎるためか、あまり大々的に取り上げられることはありませんが、龍馬の功績と捉えられることが多い薩長同盟も中岡慎太郎がいたからこそ成ったと言っても過言ではありません。

中岡慎太郎は、1838年に土佐藩内の北川郷の大庄屋の家に長男として誕生しました。

1854年、江戸の安積艮斎の私塾で学び、帰郷後土佐藩が設営した田野学館などで教鞭をとっていた間崎哲馬の私塾で経史を学び、翌年の1855年には武市半平太(武市瑞山)の道場へと入門し、剣術を学んでいます。

1861年、剣術の師武市半平太が藩内勢力を作り、山内容堂の意向に影響を与え、土佐藩を尊王攘夷の方向へ転換させるために土佐勤王党を結成します。

それに加盟し、本格的に尊王攘夷の志士としての活動を開始。この土佐勤王党には、坂本龍馬も参加し国元では筆頭となっていました。

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違う道を歩む二人

中岡は1862年に長州藩の久坂玄瑞(長州藩士。長州藩の尊攘運動の中心的人物)・山県半蔵(長州藩士)と共に信濃の松代へ佐久間象山を訪ね政治改革や国防について議論を交わしました。

ここで中岡はより一層意識を高めたと言われており、この年に土佐藩の参政・吉田東洋が土佐勤王党によって暗殺されます。

長州藩尊攘派と並ぶ、この過激さに坂本龍馬は嫌気がさしたようですが、中岡慎太郎は土佐勤王党での活動を熱心に続けました。

同じ土佐勤王党に所属していましたが、思想の相違から二人は違う道を歩み始めます。

1863年、坂本龍馬は勝海舟の下にいました。海舟の取りなしにより、山内容堂から脱藩の罪を許された龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走します。

同年の4月には海軍操練所の設立許可がおり、海舟の私塾の開設も認められました。

しかし、八月十八日の政変により朝廷内から尊攘派の公家や長州藩が追放されると土佐藩内でも尊攘派に対する弾圧があり、尊攘派の志士であった中岡は土佐藩を脱藩し、長州へと身を寄せることになります。

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攘夷志士のまとめ役

長州藩内で中岡と同様に脱藩してきた志士達のまとめ役となり、さらには八月十八日の政変により、京を追われていた三条実美の警護をしながら、各地の攘夷志士の連絡役となっていました。

1864年には薩摩藩の島津久光を暗殺しようと画策しましたが成功せず、続いて脱藩志士を率いて金門の変(長州と幕府の武力衝突)や下関戦争(長州と米・英・仏・蘭との間に起きた攘夷思想に基づく武力衝突)に長州側で参戦します。

その中で長州への冤罪や無益な対立、攘夷志士に対する弾圧を目にした中岡は、単なる尊王攘夷思想から力のある藩の協力体制による武力倒幕を目指すようになります。

そこで白羽の矢が立ったのは、中岡自身が身を寄せている長州藩と一会桑政権から外されていた薩摩藩でした。

中岡は薩長同盟締結を目指し、坂本龍馬や土方久元を説き伏せて協力させたことで、薩摩と長州の間を取り持つことに成功しました。

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再開した二人

長州藩側の中岡慎太郎が発案者となり、薩摩藩側の坂本龍馬が薩長の間の相互支援を取り持つという関係が構築できたからこそ、薩長同盟は締結することができたのです。

土佐勤王党の過激さから一度道を別ち、再び道を同じくしましたが目的を果たした後、同じ土佐出身の二人はまた別々の道を歩み始めます。

薩長同盟締結後、大政奉還による江戸城の無血開城を計画した坂本龍馬に対して中岡慎太郎は、武力倒幕を目指し陸援隊を編成し、自らが隊長となりました。

また、薩摩藩と土佐藩の間に武力討伐のための盟約を結ばせ、この盟約によって勃発した戊辰戦争では、旧幕府軍を追い詰める政府軍の先鋒になっています。

最期は京都四条の近江屋で共に暗殺された二人、結果としては思想の違いが行動の違いを生み、後に語られる功績の違いになって現れているのかもしれませんが、より良い国を目指していたという点においては違いはありません。

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西郷隆盛と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/kanren/saigoudon.html Fri, 26 Jul 2019 03:10:53 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=406 1866年に徳川幕府を武力倒幕するため、薩摩藩と長州藩の間で締結された軍事同盟が薩長同盟です。 中岡慎太郎が長州藩の桂小五郎を説得し、薩摩藩の西郷隆盛を坂本龍馬が説得した上で亀山社中が両者の問題を相互支援する形で取り持ち

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1866年に徳川幕府を武力倒幕するため、薩摩藩と長州藩の間で締結された軍事同盟が薩長同盟です。

中岡慎太郎が長州藩の桂小五郎を説得し、薩摩藩の西郷隆盛を坂本龍馬が説得した上で亀山社中が両者の問題を相互支援する形で取り持ち形になりました。

その結果、犬猿の仲と言われていた薩摩藩と長州藩が同じ倒幕という道を歩み始めたきっかけにもなった同盟です。

坂本龍馬は寺田屋遭難事件の際に京都伏見の薩摩藩邸に匿われ、その後、その時に手に受けた刀傷を癒すために鹿児島へと向かっています。

ここだけで判断すると坂本龍馬と西郷隆盛の仲は非常に良かったように思えますが、本当の所はどうだったのでしょうか。

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才覚を発揮する西郷隆盛

西郷隆盛は薩摩藩の下級藩士の家に生まれ、1841年に元服、1844年には郡奉行であった迫田利済の配下となり、郷中の二才頭(郷中教育のグループリーダー)になりました。

1851年2月に島津斉興が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主となった翌年に薩摩藩士の伊集院兼寛の姉・敏と結婚しましたが、祖父・父・母を相次いで亡くし、1853年に家督相続を許可されました。

1853年12月にペリーが浦賀に来航し、この頃の坂本龍馬は江戸で遊学中で、品川の警備に招集されています。

1854年に島津斉彬の江戸参勤の際、江戸へと赴き、4月御庭方役に抜擢されました。

この「御庭方役」というのは基本的には庭木の手入れなどを行う役目のことですが、当時は身分が高くないものを側に置くための秘策でもありました。

西郷隆盛は御庭方役として勤めながら、斉彬が自分の考えを書いた紙を庭に捨て、それを庭の手入れをしている西郷が拾い、人に見られぬような場所で中を読み、西郷の考えを書いて斉彬の机の上に置くといったようなやり取りをしていたようです。

このようなことが繰り返されるうちに斉彬は西郷の才覚を認め、他に並ぶものはいないと賞賛していました。

西郷は独立心が強く、自分以外には扱えないとも言っていたそうです。

このように西郷隆盛は、薩摩藩士として藩主にも認められ、「禁門の変」では薩摩の大将を務めています。

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龍馬との出会い

西郷隆盛と坂本龍馬を引き合わせたのが、幕臣であった勝海舟です。

この頃には薩摩藩の顔役になっていた西郷隆盛と海舟が設立した神戸海軍操練所の塾頭であった坂本龍馬。

1864年8月頃に勝海舟の紹介で出逢い、その時の西郷のことを「釣鐘の例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろうと思います」と評価している。

寺田屋遭難事件の際には「嬉しかったのは西郷が京の藩邸でこの事件の一報を聞き、まず、西郷自身が短銃に弾を込めて、私を伏見まで助けに来ようとしてくれたことです」と1866年12月に兄・権平らに宛てた手紙の中に書いている。

この手紙の中に「薩長の間を行き来している坂本龍馬は、幕府のためにはならない。是非殺すように」という命令が幕府から出ていることを伝え聞き、「この話を聞いた薩摩屋敷の小松帯刀や西郷吉之助(隆盛)なども皆、大笑いいたし、かえって私が幕府のあわて者に出会って、図らぬ幸いだ、と申し合ったことです。」と書いています。

これは幕府から坂本龍馬が襲撃を受けたことにより、龍馬を助けた薩摩藩は幕府の敵となり、薩長による武力倒幕に反対していた薩摩藩の保守派を説得するしかないと西郷が腹を決める決定打になったからです。

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龍馬を匿った西郷隆盛

寺田屋遭難事件で手に刀傷を負った龍馬は、藩船で薩摩へと向かい霧島神社や高千穂の天逆鉾を伴侶である楢崎龍と訪れるなどしています。

これが日本初の新婚旅行と言われており、薩摩での療養を楽しんだ様子が手紙に残されています。

それを読む限りでは西郷隆盛の顔がきき、追われることもなく穏やかに日々を送っていたといった印象を受けます。

仲が良かったというよりは、お互いに新しい日本を創るために必要な人物として頼りにし合うような関係だったのかもしれません。

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岩崎弥太郎と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/kanren/yataro.html Fri, 09 Aug 2019 03:00:46 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=408 岩崎弥太郎(1835年1月9日~1885年2月7日)は、土佐藩の地下浪人の家に長男として生まれ、家は貧しかったものの勉強熱心だった弥太郎は12歳の時に儒学者・小牧米山に弟子入り。 14~15歳の頃には詩才を発揮し、当時の

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岩崎弥太郎(1835年1月9日~1885年2月7日)は、土佐藩の地下浪人の家に長男として生まれ、家は貧しかったものの勉強熱心だった弥太郎は12歳の時に儒学者・小牧米山に弟子入り。

岩崎弥太郎の生家

14~15歳の頃には詩才を発揮し、当時の土佐藩主・山内豊照にも漢詩を披露するほどに成長していた。

1854年、江戸詰めとなった土佐藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ行き、昌平坂学問所の教授・安積艮斎の見山塾へ入塾しました。

しかし、1856年に酒癖が悪かったらしい父の岩崎彌二郎が酒席で庄屋と喧嘩し、投獄されたことを知って土佐へ帰国。

父を許してくれるように懇願しましたが、逆に弥太郎自身も投獄されてしまいました。

獄中も同じ房に入っていた商人から商法や算術を学び、7ヵ月後に釈放され苗字帯刀を剥奪の上、井ノ口村から追放されてしまいます。

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小林塾に入塾

弥太郎は1855年に参勤交代に伴い江戸へ行きますが、酒席の際に旗本を殴って参政を罷免されます。

その後、1858年3月に土佐へ戻り、蟄居の身となっていた吉田東洋の私塾「少林塾」へ入塾します。

小林塾では、板垣退助後藤象二郎と出会います。

弥太郎が東洋の目にとまったのは、後藤象二郎が出された宿題の回答があまりにも出来すぎていたからでした。

吉田東洋が後藤象二郎に問い詰めると弥太郎が書いたことを告白。それから岩崎弥太郎は、吉田東洋から一目おかれる存在になりました。

同じ年の4月に井伊直弼が大老に就任し、6月には日米修好通商条約に調印、9月には安政の大獄が始まりました。

このような情勢の中、吉田東洋は土佐藩の政治に再び参加、富国強兵論に基づき藩政改革を行う中で、少林塾の塾生であった板垣退助や後藤象二郎など有能な人材を積極的に登用します。

藩の財政の窮地を脱するために長崎へ向かう調査団の中に吉田東洋の推薦により、岩崎弥太郎も名を連ねることになります。

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吉田東洋の暗殺

弥太郎は吉田東洋の下で土佐勤王党の監視や脱藩者の探索などを行う一方で長崎へ赴き、海外事情を見聞きしました。

しかし、異国人と料亭などで交流し続けた結果、藩費を浪費し、金策のために無断で土佐へ戻るなどしたため、職を解かれ謹慎処分になります。

その後、1862年2月に高芝玄馬の次女・喜勢と結婚しましたが、同年の4月吉田東洋が土佐勤王党の党員に暗殺される事件が起きます。

弥太郎は井上佐一郎と共に犯人を追って大坂へ向かいましたが、その頃の京都・大坂では尊攘派が勢いを持っていた時期であったことから犯人捕縛を断念し、土佐へ帰郷しています。

僅かな資金を基に材木商へと転身を図りましたが失敗し、農業に従事する日々が続きました。

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後藤象二郎

坂本龍馬と岩崎弥太郎を結び付けるカギとなるのが後藤象二郎です。

吉田東洋の少林塾で岩崎弥太郎と共に学び、宿題を弥太郎に代筆させバレたあの後藤象二郎です。

彼は1858年、吉田東洋の推薦で幡多郡奉行となり、1860年には大阪藩邸建築のための普請奉行を命じられました。

翌年の1861年には御近習目付となりますが、1862年に吉田東洋が暗殺されたことを受けて解任、江戸で英語や航海術を学びました。

1864年藩政に復帰すると山内容堂の下で大監察や参政につき活躍しています。

1865年、薩摩藩と長崎の商人・小曽根家からの援助を受けて海軍操練所の元メンバーと共に坂本龍馬が亀山社中を結成。

航海術などの専門的な知識を生かし、航路による物資輸送などを開始します。

1866年に軍備強化を急いでいた土佐藩は参政・後藤象二郎が富国強兵を目指す藩の機関として「開成館」を創設。

欧米の商人から船舶や武器を輸入し、藩の特産品でもある鰹節や木材、火薬の原料となる樟脳を販売していました。

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九十九商会から三菱財閥へ

軍備強化を急いでいた土佐藩は、長崎のグラバー商会と取引をしていた龍馬の亀山社中に目をつけます。

11月に溝淵広之丞を介して坂本龍馬と接触を図り、1867年1月後藤象二郎と坂本龍馬は会談し、この結果、龍馬たちの脱藩は許され、亀山社中は土佐藩の外郭組織として名前を「海援隊」と改めました。

この頃、土佐藩の商務組織の主任兼長崎留守居役として常駐し、藩の貿易責任者として欧米諸国の商人と渡り合い、実業家としての腕を磨いていた弥太郎は正式に土佐藩の組織となった海援隊の経理を担当しました。

そんな時期、大洲藩から借りていた「いろは丸」が紀州藩の明光丸と衝突して沈没。

この事件では、徳川御三家を相手に損害賠償交渉が苦戦していました。

坂本龍馬が紀州藩と一戦を交える覚悟を決めた頃、龍馬に代わって弥太郎が交渉に参加し、紀州藩から70000両の賠償金を支払わせることに成功しています。

その後、1867年大政奉還がなされましたが、その年の12月、京都近江屋にて坂本龍馬が暗殺されています。

龍馬亡き後の海援隊は、後藤象二郎が土佐商会、岩崎弥太郎が九十九商会として事業を継承し、弥太郎は後に三菱商会へ発展させて三菱財閥へと成長していくのです。

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海援隊と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/kihoninfo/kaientai.html Sat, 01 Jun 2019 03:00:55 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=412 新政府綱領八策の中に西郷隆盛の名前はありましたが、そこに坂本龍馬の名前はなく、不思議に思った西郷の問いに対して龍馬は「わしは世界の海援隊でもやりますか」と言って笑っていたといいます。 海援隊というのは、坂本龍馬が中心にな

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新政府綱領八策の中に西郷隆盛の名前はありましたが、そこに坂本龍馬の名前はなく、不思議に思った西郷の問いに対して龍馬は「わしは世界の海援隊でもやりますか」と言って笑っていたといいます。

海援隊というのは、坂本龍馬が中心になって結成した組織で私設海軍であり、貿易などを行っていました。

薩摩藩からの援助を受けて運輸・開拓・教育など幅広く活動。さらには政治や商いを行い、元々海援隊のメンバーは海軍塾の塾生たちでした。

塾生たちは航海術など専門的な知識を学んでいたため、船を扱うことに長け重宝されたといいます。

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海軍操練所

1864年5月に江戸幕府軍艦奉行の勝海舟が中心となり、神戸に創設されたのが神戸海軍操練所です。

龍馬は勝海舟の手足となり、操練所設立に向けて東奔西走します。

勝海舟像

道連所より早く開設された海舟の私塾もあり、身分が低いものや脱藩者などは私塾である海軍塾、藩士などは海軍操練所と一応分かれていたそうですが、共に勝海舟の下で学びました。坂本龍馬は海軍塾の塾頭を務めていました。

1864年7月、長州藩が幕府側と市中戦となった禁門の変(蛤御門の変)において、長州側が御所に向けて発砲したことで長州藩は朝敵として定められ、幕府は長州征伐を発令します。

また、禁門の変に海軍塾塾生の安岡金馬が長州軍として参戦しており、これが幕府で問題視されてしまいます。

海舟が老中・阿部正外の不興を買ったこともあり、海舟は江戸へ召喚され、軍艦奉行を罷免されました。

それにより、神戸海軍操練所は廃止。龍馬をはじめとした塾生たちは薩摩藩に庇護され、1865年に海軍操練所は正式に廃止となりました。

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亀山社中の始動

薩摩藩に預けられた塾生たちは、薩摩藩と長崎の小曾根家から援助を受けて航海術などを生かし商業活動を行いました。

これが日本初の商社と言われている「亀山社中」です。

亀山社中は犬猿の仲であった薩摩藩と長州藩を結び付けることに貢献し、後に薩長同盟締結に至っています。

しかし、長州藩から薩摩藩に米を運ぶ途中、ワイルウェフ号(薩摩藩が供与)が遭難して沈没。

ユニオン号を長州藩へと引き渡すことになった亀山社中は、船を失ってしまいます。

そのため、亀山社中の水夫たちに龍馬は暇を出しましたが、離れたがるものは少なく、困り果てた龍馬は三吉慎蔵宛の手紙に記しました。

これによりワイルウェフ号の代わりにと薩摩藩は、代わりとして帆船「大極丸」を亀山社中に供与しています。

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海援隊に改称

土佐勤王党の尊攘派志士たちを強く弾圧していた土佐藩も意見を替え、軍備強化を急いでいました。

当時、土佐藩の参政だった後藤象二郎を中心に長崎から武器や弾薬の購入をしていました。

そんな中、航海術があり、商業の専門技術もある、さらに薩摩や長州との繋がりもある坂本龍馬に注目した土佐藩は、龍馬たち土佐藩脱藩者の罪を赦免し、亀山社中を土佐藩の外郭団体とすることを決めます。

1867年4月には亀山社中は「海援隊」に改称し、土佐藩からの援助を受けて土佐藩士などを受け入れや運輸や交易、開拓などで土佐藩を助けながら、海軍と交易会社の二つの面を兼ね備えた組織として活動しています。

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海援隊の苦難

海援隊を結成してから時を置かず、大洲藩に籍を置き海援隊が運用していた(レンタル)蒸気船の「いろは丸」が紀州藩船の明光丸と衝突してしまいます。

海援隊の集合写真※龍馬は左から3番目

いろは丸は沈没し、紀州藩から賠償金の支払いを受けたものの海援隊の経済状況は悪く、決死の交渉によって紀州藩が賠償の支払いに応じることに同意。

その後、龍馬が薩土同盟成立のために留守にしている間、長崎で英国軍艦イカロス号の水夫が殺害され海援隊士が犯人として疑われます。

龍馬は象二郎と共に長崎へと戻り、英国公使のパークスと話し合った結果、証拠不十分で海援隊士の嫌疑は晴れることになりました。

龍馬にとって海援隊は同じ海軍塾で寝食を共にし、学んだ仲間がいる場所であり、結成当時脱藩者であった龍馬にとって自分の居場所でもあり、国のために動く基盤となっていたのではないでしょうか。

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見廻組と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/ryoumahistory/mimawari.html Mon, 10 Jun 2019 03:08:29 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=410 倒幕を目論む尊攘派の志士にとって一番身近にいた敵というのが、当時京都の警備にあたっていた京都所司代と京都町奉行所です。 しかし、倒幕を望む尊攘派の志士達は次々に上洛し、天皇の為と尊攘運動を行っていたことから京都の治安は乱

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倒幕を目論む尊攘派の志士にとって一番身近にいた敵というのが、当時京都の警備にあたっていた京都所司代と京都町奉行所です。

しかし、倒幕を望む尊攘派の志士達は次々に上洛し、天皇の為と尊攘運動を行っていたことから京都の治安は乱れ果てていました。

そこで京都の治安を維持するために編成されたのが京都見廻組です。

京都見廻組は、新撰組と同じく京都市中の警備や不逞浪士の取り締まりを受け持っていた組織です。

上司は新撰組と同じく会津藩主で京都守護職の松平容保です。

新撰組との違いは、新撰組が将軍警備のために江戸で募集された浪士の集まりなのに対し、見廻組は旗本や御家人など身元が確かな人々で構成されていました。

この二つの組織は役割を同じくしながらも前者は町人街や歓楽街を主に巡回していたのに対して、後者は二条城や御所など京都の中でも主要な場所の警護をしていました。

また、同じように京都市中の見廻りをしていても新撰組と見廻組が共闘することはありませんでした。

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龍馬と見廻組の関係

「見廻組って何?」と思われる方も少なくありません。幕末の幕府派というとどうしても新撰組の方が有名ですね。

かまのんLIFEより引用

しかし、知名度は低くても坂本龍馬との関わりが深いのは見廻組なのです。理由は坂本龍馬を暗殺した犯人だから、というと非常にわかりやすくなりますね。

坂本龍馬暗殺は当初、現場に残されていた鞘に対する御陵衛士の証言や「こなくそ」という方言から新撰組隊士で松山出身の原田左之助だと思われていました。

しかし、大政奉還、王政復古の大号令の後の明治3年、1870年に元京都見廻組の隊士・今井信郎が自供によって坂本龍馬と中岡慎太郎を近江屋で襲撃・暗殺したのは京都見廻組だとが認められました。

ちなみにこの時に使用したとされている刀は、京都の霊山博物館に所蔵・展示されています。

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マークされていた龍馬

坂本龍馬は船中八策の中で大政奉還による平和的な政変を提唱しており、幕府側としては敵ではなかった気がしますね。

しかし、薩長同盟締結に尽力しており、仮に大政奉還の建白書が受け入れられなかった時には、路上で待ち構えて慶喜を討つと言っていたそうですから、危険人物の一人としてマークされていたのかもしれません。

一説によると見廻組が坂本龍馬を襲撃したのは、寺田屋事件で龍馬が捕り方を射殺して逃走したため、奉行所に対して「害をなした」という動機があり、見廻組の龍馬暗殺は職務を果たしただけのようです。

ちなみに近江屋事件に関与したのは、佐佐木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大三郎で、その中でも佐々木、渡辺、高橋、桂が実行犯であると言われています。

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大政奉還と坂本龍馬 https://ryoumahistory.com/ryoumahistory/taiseihokan.html Fri, 14 Jun 2019 03:34:39 +0000 https://ryoumahistory.com/?p=414 265年間という長い間続いた江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が天皇へと政権を返上し、後に天皇から任ぜられた征夷大将軍職を辞職した日本の歴史の中でも大きなイベントとされているのが大政奉還です。 征夷大将軍というのは元々、奈良

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265年間という長い間続いた江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜が天皇へと政権を返上し、後に天皇から任ぜられた征夷大将軍職を辞職した日本の歴史の中でも大きなイベントとされているのが大政奉還です。

征夷大将軍というのは元々、奈良時代頃に蝦夷討伐のために編成された軍隊の総大将のことで、源頼朝が鎌倉幕府を成立させてからは、幕府の最高権力者として朝廷から任せられた実質的に政治の実権を握っていました。

それを天皇に返上し勅許され、その後の「王政復古の大号令」により征夷大将軍職は廃止されました。

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大政奉還の本当の狙い

船中八策の一項目

1 天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事(大政奉還)

というのが大政奉還のことです。

船中八策は龍馬が後藤象二郎に話し、それを後藤が山内容堂に進言し、徳川慶喜に建白を出したことで大政奉還が行われたのですが、これには狙いがありました。

先ず、武力討伐を目指す倒幕派の目的を失わせることでした。

そして、権力を返上した上で朝廷は政治に疎いから政局には関わっていこうという考えです。

徳川慶喜は、権威を失った幕府という体制のまま身を滅ぼすよりも、最高権力を返上して政治の上で上手い事生き残っていく方法として大政奉還を選択したということです。

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倒幕の動き

1853年の黒船来航から日本は日米和親条約を締結し、1858年には日米修好通商条約を締結。

幕府にとっては天皇の理解を得られないままの条約締結となり、苦渋の決断だったわけですが、政治にも疎く海外情勢も全く知らない孝明天皇は幕府に対して攘夷を強く求めました。

「天皇が攘夷を望んでいるのに幕府はなにやってんのさ、幕府倒しちゃおうぜ!」と長州藩を中心とした尊攘過激派の志士達は上洛。派手に倒幕のための行動を起こすようになりました。

これには天皇自身も困ってしまいます。孝明天皇は攘夷こそ望んでいたものの倒幕は考えていなかったからです。

天皇にとって大迷惑な話ですが、朝廷内には長州藩と考えを同じくするものがおり、天皇が言っていたかのように装い尊攘派の志士達をやる気にさせていたわけです。

そのため、京都ではもっと天皇の役に立とうと盛大に勘違いした志士が行動し、取り締まりを受けて撤退し、また集まるということが繰り返されていました。

これでは治安の維持など叶うはずがありません。

京都守護職・松平容保や伏見奉行所などが見廻りを強化し、尊攘派の志士を取り締まりましたが、2度目の長州征伐では頼みの綱であった薩摩藩は動かずに敗北を喫します。

さらには長州藩と薩摩藩が薩長同盟を結び、武力による倒幕に向けて動きはじめます。

長州藩は元々過激な倒幕派であり、薩摩藩は政治の中心から追い出されてしまったものの幕府からの評価も高い有力な藩でした。

この二つが手を組んで倒幕のために兵を挙げたら、力を失った幕府に待っているのは敗北です。

そこで大政奉還してしまおうとなったわけです。

これにより徳川慶喜は征夷大将軍職を離職し、その後の王政復古の大号令で正式に征夷大将軍職は廃止されました。

幕府は解体され、政治の中心は朝廷に戻ったわけです。

しかし、武力討伐を目指していた人たちや幕府を守ろうとしていた人たちの勢いは止まらず、その後の戊辰戦争へとなだれ込むわけですが、その話はまた別の機会にしましょう。

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