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坂本龍馬と勝海舟

勝海舟幕末の日本で幕府の人間でありながら、坂本龍馬や高杉晋作、桂小五郎、西郷隆盛と交流を持ち、尊攘派の志士達にも一目置かれていた人物が「勝海舟」です。
勝海舟は渡米経験があり、1860年に幕府からの遣米使として日米和親条約の批准書交換のためでした。
この時本来行くはずだった一橋派の幕臣たちは安政の大獄で引退を余儀なくされていたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付には小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号太平洋を横断しました。
その時に護衛艦として威臨丸という軍艦が派遣されました。その威臨丸に勝海舟は乗っていました。
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龍馬と勝海舟は師弟関係

当時の勝海舟は「軍艦操練所教授方頭取」という立場にあり、船に同乗した福沢諭吉の「福翁自伝」には勝海舟は指揮官と記されており、こちらも同乗していたアメリカ海軍の測量船フェニモア・クーパー号の艦長・ジョン・ブルック大尉は威臨丸の艦長だったと言っています。

勝海舟後に軍艦奉行となる勝海舟と坂本龍馬は師弟関係にありました。

1862年12月9日、幕府政事総裁職の松平春嶽から幕府軍艦奉行並の勝海舟への紹介状を受けた坂本龍馬は門田為之助・近藤長次郎と共に勝海舟の屋敷を訪れ、勝の門人となりました。

明治23年に勝海舟本人が語った「追賛一話」では坂本龍馬と千葉重太郎が開国論者である勝海舟を斬るために屋敷を訪れ、勝海舟が話した世界情勢と海軍の必要性に坂本龍馬が感服しその場で門人になったということになっていますが、これは勝海舟の記憶違いの可能性が高いといわれています。

坂本龍馬が勝海舟の屋敷を訪れる際に正式に紹介状を受けていたことなどが、その理由としてあげられていますが、どちらにしても坂本龍馬は勝海舟に心服していたのは、本当のようで、姉・乙女に宛てた手紙の中でも勝海舟を日本第一の人物として紹介しており、勝海舟の弟子として勝の海軍操練所の開設のために働いていることを自慢しています。

勝海舟も坂本龍馬を可愛がっていたようで、土佐藩藩主の山内容堂に取り成して1863年坂本龍馬の脱藩の罪が赦免され、土佐藩藩士が勝海舟の私塾に入塾することも認められました。
 

勝海舟のために脱藩も

神戸操練所の開設のために坂本龍馬は勝海舟の手足となって働き、1863年10月には神戸海軍塾塾頭に任ぜられています。翌年2月に帰国延期申請が拒否された際には、勝の下で海軍操練所の仕事を続けるために再び脱藩しています。

亀山杜中当時の脱藩は友人や親族も同罪と見なされるほどの重罪でしたので、そうしてまでもそこで働きたいという坂本龍馬の強い気持ちがわかります。

坂本龍馬が西郷隆盛と面会したのも勝海舟の紹介を受けての事で勝海舟と坂本龍馬が出逢い、西郷隆盛とのつながりを持ったことで日本の歴史は新たな時代へと大きく動くことになったのでしょう。

1864年、勝海舟の私塾の塾生・安岡金馬が金門の変で長州藩に参加していたことが幕府から疑問視されてしまい、また海舟自身も老中・阿部正外の不興を買ったため、勝海舟は10月22日に江戸召還命令を出され、11月10日には軍艦奉行の任を解かれてしまいます。

この為神戸海軍操練所は廃止せざるを得なくなり、龍馬たち海舟の塾生は薩摩藩に庇護されることになりました。

そして翌年の1865年3月18日神戸海軍操練所は廃止になりました。この時、海舟から塾生たちの庇護を頼まれた薩摩藩は彼らの航海術に対する専門知識を重要視していました。そして彼らに出資し設立されたのが亀山社中です。

このようなことから坂本龍馬と勝海舟の出会いは龍馬と西郷隆盛を引き合わせ、ひいては坂本龍馬と薩摩藩との関係に繋がり、当時あまり仲が良くなかった薩摩と長州を結び付け日本を新しい時代へと導いて行くことになりました。

さらに、海舟と出逢い様々な話を聞く中で龍馬は世界に目を向けるようになっていったと考えられています。現在の日本は食料や燃料など海外から輸入することで成り立っているのもが沢山あります。

そんなその他にも海外からの文化や考え方など影響を受けているものは沢山あります。今日の日本と諸外国との交流や貿易の礎はこの二人の出会いなくしてはありえなかったかもしれませんね。
 

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