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坂本龍馬の歴史Ⅱ

坂本龍馬,歴史

亀山社中設立

薩摩藩によって庇護された龍馬ら海舟の私塾の塾生はその航海術の専門知識を重視され、出資を受けると亀山社中を設立しました。

今でいう株式会社のようなもので商業活動をし、その活動の儲けで利潤をあげる他に、当時仲が悪かった薩長両藩の和解目的でもありました。実際に薩長同盟を成立させるのに一役買っています。
 
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薩長同盟

坂本龍馬がなした大きな功績の一つにこの薩長同盟があげられるのではないでしょうか?薩摩と長州はいろいろな事情によりあまり仲が良くなかったのでまさかこの二つの藩が同盟を結ぶなど当時では到底考えにくかったことです。

長州藩は薩摩と会津によって京都から追い出されたことに反感がありました。しかし、中岡慎太郎や土方久元は武力討伐を望んでいました。

西郷隆盛龍馬も大村藩の志士・渡辺昇に薩長同盟の必要性を話し、長州の桂小五郎と引き合わせてもらいました。

まず、龍馬と土方が桂を説得し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談するようにセッティングしました。1865年、龍馬と桂は下関で西郷を待ちましたが、西郷は朝廷が幕府が主張する長州征伐に傾くことを懸念し阻止するために京都へと向かっていました。

西郷にも止むに止まれぬ事情があったのですが、桂は激怒してしまいました。このまま和睦の道は閉ざされたかのように思えましたが、ここからが龍馬の手腕の見せ所です。

倒幕の急先鋒である長州は幕府によって武器弾薬の類の取引を全面的に禁止されていたため近代的な兵器の入手が難しくなっていました。

その一方で薩摩は兵糧米の調達に苦心していました。そこで龍馬はまず、薩摩名義で武器を調達し秘密裏に長州へ転売する、そして長州からは薩摩へ不足している兵糧米を回送するという提案をしました。

取引と輸送は亀山社中が請け負うというこの提案はお互いの利害が一致していたため双方ともに首肯しました。

この亀山社中初仕事は薩長和解の糸口となりました。

1866年1月8日、小松帯刀の京都屋敷で桂小五郎と西郷隆盛の会合が開かれましたが、話し合いは難航し、1月20日に龍馬が京都に到着した時未だ同盟が成立していませんでした。

長州の桂はこれ以上長州は頭を下げられないというので、龍馬は薩摩の西郷を説得。薩摩の代表は西郷と小松、長州代表は桂、立会人は龍馬が列席して薩長同盟がここに成立しました。

1月23日龍馬は護衛役の三吉慎蔵と京都寺田屋へ戻り祝杯をあげましたが、この時伏見奉行が龍馬捕縛の準備を始めていました。

この時、龍馬の妻・お龍が入浴中にいち早く異変に気づき、龍馬に知らせたという話は聞いたことがあると思います。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で応戦しましたが手指を切られ負傷、一緒にいた三吉も長槍にて応戦しますが勝ち目はなく二人は屋外へ脱出。

手傷を負った龍馬は材木場に身を隠し、三好は旅人を装って薩摩藩邸へ逃げ込み救援を求め、龍馬は薩摩藩によって無事救出されました。

龍馬は西郷の勧めで治療のためにお龍を伴い鹿児島などを巡りました。これが日本で初めての新婚旅行だといわれています。

6月、幕府は10万を超える兵力で第二次長州征伐を開始。16日ユニオン号に乗り下関に寄港した龍馬は長州藩の求めにより参戦。高杉晋作が指揮する小倉藩への渡海作戦で龍馬はユニオン号を指揮。これが最初で最後の実戦だったということです。

幕府は多くの戦力を投入したにも関わらず、西洋の最新式の武器を要する長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝。この心労がたたってか徳川14代将軍家茂は7月大阪城で倒れ、わずか21年の人生に幕を下ろしました。勝海舟が長州藩と談判し幕府軍は撤退。
 

龍馬と海援隊

これより2か月ほど前の5月1日、長州からの兵糧米を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、その航海で薩摩藩から供与された帆船のワイル・ウエフ号が遭難沈没し土佐の脱藩者である池内蔵太ら12人が犠牲となっていました。

そして長州征伐応戦の際に龍馬が指揮を執ったユニオン号も長州藩へ引き渡すことになり、亀山社中には船がなくなってしまいました。この為、薩摩藩はワイル・ウエフ号の代わりとして帆船「大極丸」を亀山社中に供与しました。

海援隊

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%8F%B4%E9%9A%8A



幕府はというと家茂が死去してから一橋慶喜を15代将軍にするという動きがありましたが、慶喜自身が将軍になることを望まず、宗家の家督のみを引き継ぎ、将軍職は空席になっていました。

8月末頃龍馬は越前藩から長崎に来ていた下山尚に政権奉還を松平春嶽に歌えるように頼みましたが、それ以前に幕臣の大久保一翁がかねてから論じていたことで、8月14日に春嶽が慶喜に提案し拒否されていました。

土佐藩では尊攘派が粛清され佐幕派が再び実権を握っていましたが、時代の流れを察し、長崎から武器や弾薬を買い付けるなど参政の後藤象二郎を責任者として軍備強化をしていました。

そんな中で航海術があり通商の専門技術もある上に薩長とも関係が深い龍馬に目を向けました。11月頃から溝渕広之丞を介して龍馬と接触を図り、1867年1月13日龍馬と後藤が会談。亀山社中は土佐藩の外郭的な組織として存在することになり、脱藩も許されました。

4月には亀山社中から「海援隊」と名を改め、土佐藩の援助を受けて運輸・交易・開拓などを行い、土佐藩藩士や脱藩者、海外に興味のあるものを引き受けることになりました。

1867年、6月9日京都で四候会議が開かれていて、後藤は象山に呼ばれていました。龍馬は船内で政治網領を後藤に提示しました。八項目あったそれは次のような内容です。

大政奉還・議会開設・官制改革・条約改正・憲法制定・海軍の創設・陸軍の創設・通貨政策

これは明治政府が設立した際の実質的な原本となりました。

さてこれを龍馬から提示された後藤は建白書として容堂に上書しようとしましたが、中岡慎太郎の仲介により乾退助、西郷隆盛らが薩土倒幕の密約を結び、翌日承認した容堂は葺きの買い付けを行った後土佐へと帰還していました。

その後、龍馬の船中八策に基づいた王政復古を目標とする薩土盟約が結ばれましたが、9月7日には両藩の思惑の違いから盟約は解消され、薩摩藩は倒幕へと歩んでいきます。

10月9日龍馬は京都へ入りましたが、10月3日に後藤象二郎は二条城へ登城、容堂らと連名で老中の板倉勝静に大政奉還建白書を提出していました。10月13日将軍・慶喜は二条城で各藩重臣に大政奉還を諮問、翌日14日に明治天皇に上奏し、15日に勅許が下されました。

10月16日に龍馬は尾崎三良と新官制擬定書を作り、西郷に見せました。しかし、その中には龍馬の名はなく西郷は龍馬に新政府に入るよう勧めますが、「世界の海援隊でもやりますかな」と龍馬は断ってしまいます。龍馬は役人になるのは嫌だと妻・お龍に語っていたということです。
 

坂本龍馬、暗殺

11月上旬には船中八策を基に新政府網領八策も起草されており、龍馬が語った新しい日本がすぐ目の前に迫った11月15日、後藤象二郎から頼まれ松平春嶽の上京を促し、三岡八郎との会談も済ませた龍馬は11月5日に帰京し、河原町の近江屋新助宅の母屋二階にいました。

その日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎などの訪問を受け、午後8時頃龍馬と中岡が話していたところ十津川藩士を名乗る男たちが面会を求めてやってきました。

従僕の藤吉が取り次ぐと相手はそのまま二階に上がり、藤吉を斬り、帯刀していない龍馬と中岡に斬りかかってきました。

龍馬は額を深く斬られ、その他数か所を斬られて即死に近い形で絶命したといわれています。

初めは新撰組の関与が強く疑われ、1868年出頭した近藤勇は斬首、新撰組隊士で龍馬殺害の疑いで捕縛された大石鍬次郎は拷問の末に自白するも後に撤回。

龍馬が暗殺されたこの日は龍馬の誕生日でもありました。

1870年、函館戦争で捕虜になった元京都見廻組の今井信郎が与頭・佐々木只三郎とその部下が龍馬を殺害したと話し、今はこの説が定説となっています。京都にある「幕末維新ミュージアム 霊山歴史館」には坂本龍馬を桂隼之助が斬ったとされる刀があります。

実際に坂本龍馬が誰に暗殺されたのかはわかりませんが、龍馬の様子を見て死に花が咲いたと言っていたご婦人がいるようなのでもしかすると龍馬も自分の死期を感じ取り、新政府の名簿に自分を入れなかったのかもしれませんね。
 

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