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坂本龍馬の歴史Ⅰ


皆さんは幕末の尊王攘夷運動を知っているでしょうか?

1603年に時の征夷大将軍・徳川家康が江戸に幕府を築いてから1867年に大政奉還されるまでのおよそ264年間、日本は将軍中心の政治を行っていました。

坂本龍馬の歴史海外諸国との関わりも一部の場所を除いては行うこともなく、将軍である徳川家は主従関係を結んでいる各大名に、藩内の独自の統治を行う権限をある程度与えていました。

しかし、1853年7月8日、浦賀沖にアメリカ艦隊が停泊し、これを機に日本は大きく動き出すことになります。

徳川将軍家では1853年7月27日、第12代将軍であった徳川家慶が病死。徳川家定が第13代将軍になりました。

その後、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還するまで徳川幕府が続くわけですね。では大政奉還のきっかけとなった尊王志士たちの一人である坂本龍馬と歴史について見ていきましょう。

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幼少期から江戸遊学期

江戸幕府が倒され、日本が新しく生まれ変わる三十年ほど前のことです。1835年11月15日、土佐藩の下級藩士・坂本八平の家に男の子が生まれました。妻の幸との間に生まれた次男が坂本龍馬です。

1846年、龍馬が12歳の時、母・幸が死去。八平は伊予という名の後妻をもらいました。伊予は土佐藩御用人・北代平助の長女でしたが、彼女も夫に先立たれていました。

それ以降、龍馬は伊予に養育されることになります。

龍馬は伊予によくなつき、伊予の前夫の実家で土佐藩御船蔵のある種崎にあった川島家を姉・乙女と一緒に訪れては、長崎や下関からのもの珍しい話を聞いたり、川島家にある世界地図や舶来の品などを見ては世界への憧れを強めたと言われています。

この頃の龍馬は、漢学の楠山塾に通っていましたが退学。姉の乙女に武芸と学問を教えてもらっていました。

1848年、龍馬は日根野弁治の道場に入門し、小栗流を学び、熱心に稽古に励みました。その甲斐あって入門からわずか5年で小栗流の「小栗流和兵法事目録」を得ることができました。

黒船1853年、小栗流の目録を受けた龍馬は剣術の修行のため、1年間の江戸自費遊学に出かけました。

溝口広之丞と共に土佐を出た龍馬は、4月頃に江戸へ到着し、築地にある土佐藩中屋敷に寄宿。北辰一刀流の桶町千葉道場の門人になります。

運命の歯車はこの時すでに回り始めていたのかもしれません。

龍馬が江戸に遊学中のこの1853年、浦賀沖にペリー率いるアメリカ艦隊がやってきました。黒船来航を龍馬は江戸で迎えることとなりました。

剣術の修行で江戸にいた龍馬も品川にある土佐藩下屋敷の守備のために臨時招集されました。このことを龍馬は父・八平宛ての手紙に記しており、中には異国人の首を討ち取るといった内容も書かれていたそうです。

同年12月には軍学家で思想家の佐久間象山の私塾に入学しますが、間もなく象山は吉田松陰の米国軍艦密航事件に関わったとされ、投獄されてしまいます。

その後、1854年に江戸遊学を終えた龍馬は土佐へと帰還します。1855年12月父・八平が死去し、家督を兄の権平が継ぐと1856年から龍馬は再び江戸遊学へと出かけます。

9月頃に江戸に到着した龍馬は、大石弥太郎や遠縁の武市半平太と共に土佐藩中屋敷へ寄宿し、北辰一刀流の玄武館などで修業。

1858年には「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられ、9月には土佐へと帰還しました。


黒船来航と土佐藩

黒船が来航して以降、土佐藩藩主・山内容堂は、吉田東洋を参政させるなどして藩政改革に乗り出していました。

さらに水戸藩藩主・徳川斉昭や薩摩藩藩主・島津斉彬、宇和島藩藩主・伊達宗城と共に、将軍を一橋慶喜に継承させ幕政改革も行おうとします。

しかし、1858年に井伊直弼が大老に就任すると幕府は慶喜ではなく徳川家茂を将軍とし、開国を強行。反対派を弾圧します。

これに反発した水戸藩藩士が桜田門外で井伊直弼を暗殺。それから土佐藩の下級藩士たちの間では、尊王攘夷思想が広まっていきました。

龍馬と半平太と土佐勤王党

尊王攘夷思想が広まる中、武市半平太は水戸・長州・薩摩の藩士たちと交流し、朝廷の権威を強化。幕府に対抗するという盟約を交わします。そして盟約を遂行するために土佐勤王党を結成します。

龍馬も国元筆頭として土佐勤王党に参加。しかし、「公武合体」を藩の方針として掲げていた土佐藩では、尊王攘夷思想が受け入れられず、挙藩尊王とはなりませんでした。

それでも土佐勤王党は諸藩の動向に目を配り、方策を講じ続けました。

龍馬も1861年「小栗流和兵法三箇条」を授かると剣術の修行と称して土佐を出発。長州藩の尊王運動の中心的人物・久坂玄瑞に面会し、武市宛ての書簡を預かるなどしています。

龍馬が土佐へ帰還すると薩摩の島津が挙兵し、上洛したという知らせが伝わりました。

本当は幕政改革の為の挙兵でしたが、それを尊王攘夷のためだと勘違いした土佐勤王党のメンバーの中には、脱藩して薩摩藩の上洛に加わろうという者もいたようです。

この時、脱藩した者の中には「天誅組」を組織する吉村寅太郎、海援隊に属する沢村惣之丞がいました。

※豆知識:脱藩って?

脱藩というのは文字通り藩から抜けることです。しかし、当時、脱藩は重罪でした。

藩との関係を一方的に切り、主従関係という拘束から抜け出すことは、藩内で罪人とされるばかりではなく、藩内に残った家族・友人も同罪と見なされてしまうほどでした。

坂本龍馬。ついに脱藩

さて先に記したとおり脱藩はこの頃重罪でした。しかし、1862年3月24日、先に脱藩した者たちからの誘いを受けた龍馬はついに脱藩を決意。

坂本家の祖・才谷家が建立した和霊神社を詣で、先に一度脱藩している沢村惣之丞と水杯し、脱藩しました。

脱藩した龍馬は沢村と共に長州にいる吉村の下へと行きましたが、吉村は二人を待たずに京都へ向かっていました。

尊王派の動きを知った島津斉彬は驚き、尊王派の鎮撫を命じます。4月23日寺田屋で薩摩藩の尊王派は静粛され、各地の尊王派の計画もつぶれてしまいました。吉村も途中で捕縛され、土佐へと送還されています。

その後の龍馬の動きは定かではありません。寺田屋事件が起こる少し前に土佐藩内では、吉田東洋が暗殺され、藩の方針を尊王攘夷へ転換することに成功します。

武市は藩主・山内容堂に勤王のために上洛するよう促していました。


坂本龍馬と勝海舟

1862年8月、脱藩し江戸へ到着していた龍馬は小千葉道場に寄宿し、土佐藩の同志や長州藩の久坂玄瑞・高杉晋作と交流。

12月には、中岡慎太郎、間崎哲馬、近藤長次郎と共に幕府政事総裁職の前福井藩主・松平春嶽に拝謁。幕府軍艦奉行並の勝海舟への紹介状を受けました。

紹介を受けた龍馬たちは、海舟の屋敷を訪問して門人となりました。この経緯にはこんな話があります。

本当は龍馬たちは開国論者である勝海舟を殺すために海舟の屋敷を訪れたのですが、世界情勢と海軍の必要性と説かれた龍馬が多いに感服し、己を恥じてその場で海舟の門人となったという話です。

勝海舟この話は広く知られているため、聞いたことがある人も多いと思います。これは勝海舟自身が語ったものです。

しかし、正式に紹介状を受けていることから、この話は勝海舟が誇張したか覚え違いだという説が有力です。

海舟の門人となったことで海舟が土佐藩主・山内容堂に取り成し、龍馬の脱藩は許され、土佐藩士が海舟の私塾に入ることも認められました。

龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、海舟の京都での警護に土佐勤王党の岡田以蔵をつけるなどするようになります。

龍馬は勝海舟を本当に尊敬していたようで姉・乙女にも手紙でこのことを自慢しています。

龍馬が海舟の海軍操練所設立のために奔走している頃、土佐藩では再度実権を取り戻そうとする山内容堂が土佐勤王党の粛清に乗り出しました。これにより、間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太は切腹させられます。

この時、龍馬は乙女に手紙をだし、収二郎の妹・加尾を心遣いし、またこの手紙であの有名な「日本を今一度洗濯いたし申し候」と書いています。

8月には倒幕勢力最大の長州藩が薩摩藩と会津藩の連合軍により、京都での実権を佐幕派に握られると天誅組が大和国で挙兵。9月に壊滅し、土佐脱藩志士も多くが戦死しました

勤王党の党首・武市半平太も投獄され、土佐勤王党も壊滅状態に陥っていました。

10月に龍馬は神戸海軍塾塾頭に任ぜられ、翌年、帰国延期申請が拒否されると海軍操練所設立の仕事を続けるため藩に拘束されるのを嫌った龍馬は一度は許されたものの再度脱藩。

2月、関門海峡封鎖朝廷のため、長崎出張する勝海舟に同行し横井小楠と会合しました。

5月、勝海舟が正規の軍艦奉行に昇進し、神戸海軍操練所が発足。6月5日、京都では池田屋事件が起き、宮部鼎蔵、吉田稔麿など多くの尊王派の志士が命を落とし、捕縛されました。

長州藩は一掃され、再び京都で実権を握るために進軍しますが、一日で幕府の勢力に敗れます。

この時に長州兵が御所に発砲したことから長州藩は、朝敵とされ幕府は長州征伐を命令。責任者の三家老が切腹し降伏しています。

この頃の龍馬は寺田屋のお登勢に預けていたお龍と内祝言を挙げています。8月中旬龍馬は海舟から紹介を受けて西郷隆盛と面会しています。

また、私塾の塾生が長州軍に参加していたことが幕府から問題視され、さらに海舟が当時の老中・阿部正外の不興を買い海舟は江戸へ戻ることを余儀なくされ、軍艦奉行も下ろされてしまいました。

これにより神戸海軍操練所も廃止せざるを得なくなり、海舟は塾生を薩摩藩の城代家老・小松帯刀に託し、江戸へ帰還したのです。

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